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今回は、明治以前、西洋のキリスト教的倫理観が入ってくる前の日本人の性史観について語っていきたいと思います。

 
 

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古代日本人のエッチ=「豊穣の象徴」だった

 

 
日本人は古代から「性」にとっても大らかな民族でした。
 
 
地方によって昭和初期まで庶民に「夜這い文化」が残っていたり、農村部の「お祭り」は、もともと乱交パーティ(この日は既婚者も別の人とできちゃってOK)だったりします。(←もちろん地方や身分によって違う場合も多い)
 
 
「子作り=豊作の象徴」なのはやたらと「男女の合体」記述の多い「古事記」の時代からあるもので、エロ=「邪な秘めたるもの」ではなく「めでたいもの」だったんです。
 
 
これは「子孫の繁栄」につながる大切なことなので、本能的にも正しいことだと思いますよ。
 
 
古代の文化はおもしろいです。
 
 
「古事記」は父親の愛人を息子が奪ったり、弟が兄をだまし討ちしたり、「男の娘(こ)」(ヤマトタケル)がハニートラップを仕掛けてマッチョ2人を殺したり、女にだらしない神様だらけだったりと、今の「道徳」では糾弾されそうな内容がいっぱい書かれています。
 
 
でも、「古事記」の編纂を命じたのが偉い人(天武天皇)だったことから、当時はそういう事がタブーではなかったんです。
 
 
本当はエロい?「古事記」的な本が、いくつか発売されていますけど、それにけしからんという人は視野が狭い人だなーと思います。歴史の楽しみ方は人それぞれです。
 
 
ということで、今回は天才僧空海の江戸時代に広まっていた逸話の1つをお伝えします。

 
 

「男色の戯れは弘法以来のことなり」by貝原益軒

 

 
17世紀の江戸に、儒学者で本草学者でもあった貝原益軒という人がいました。
 
 
「養生訓」という健康指南書がおもしろくて有名な人ですが、その偉い先生が、「日本にゲイカルチャーを持ち込んだのは空海だ」と、はっきり書き残していたのでした。貝原益軒は、やたらと細かくいろんなことを書き残している先生です。
 
 
空海ファンにはガチで怒られそうですが、何気に今年公開された映画「空海ーKU-KAIー」のキャスティングが染谷将太さんだったというのが絶妙だなと思った私。
 
 
ま、とにかく江戸庶民が「日本の同性愛の元祖=空海」と思っていたのは、確かなようです。
 
 
ほかに、江戸川柳に「弘法は裏 親鸞は表」と詠まれたものも残っています。(表と裏の説明は野暮なので省略)
 
 
この説が真実か否かは確かめるすべはありませんが、偉い人が言ってるだけあってそれなりの根拠はあったのでした。
 
 
では、その3つの根拠をお伝えします。

 
 

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(1)男色は長安(唐)の最先端カルチャーだった!

 

 
空海は、延暦23(804)年、遣唐使として「唐」に留学しました。このとき最澄も別の船に乗って一緒に行っていますが、なぜか「最澄が」とは言われないんですよね。
 
 
当時、唐の都「長安」では男色が最先端カルチャーとして一大ブームになっていたのです。都の娼館には男娼もたくさんいました。
 
 
発展途上国の日本から唐にやってた留学生たちは、「ほおおお、これが世界の最先端風俗か!」と思い込み、唐の最新文化体験にいそしんだ・・・人もいたそうです。(空海がそうかは定かではありません)
 
 
そうして、彼ら修行僧は、帰国した後にそれを「先進国で流行しているクールな文化」として伝え、僧侶と流行に敏感な暇人(平安貴族)たちの間で広まっていったといわれます。

 
 

(2)BL僧侶が空海様が伝えたと触れ回った

 

 
その後、日本の僧侶たちの間でその最先端カルチャーは、稚児文化へ発展していきます。
 
 
いわゆる現代の相互的なゲイではなく、ギリシアエロス的な少年愛(ペデラスト)の文化に変容していったのでした。(←詳しいことは稲垣足穂の「少年愛の美学」がおススメ)
 
 
そして僧侶たちの中には、「高野聖(こうやひじり)」として全国を遊行した者が大勢いました。
 
 
彼らが自分の稚児趣味を「空海が広めたのだ」と空海の権威を持ち出して正当化し、全国に広めたと考えられるのです。
 
 
本当にそうだったら、空海はえらい迷惑ですね、名前出されて。
 
 
そもそも僧侶のお稚児趣味は、もっと前の奈良時代に仏教と共に入ってきたといわれます。
 
 
それがブームになって定着していったのが、空海の時代だったのでしょう。

 
 

(3)空海のモテっぷりがヤバかったから

 

 
もう1つ、空海という人は天才だった上に、ものすごくコミュ力が高く、人を惹きつけずにはおかないカリスマ性のある人でした。
 
 
とにかくモテた「人たらし」で、これからは「密教だ!」と思った嵯峨天皇から高野山をポンともらったり東寺をポポンともらったりと、特別待遇を受けまくっていました。(「密教」も最先端仏教カルチャーでした)
 
 
ここら辺が最澄と対照的でおもしろいです。
 
 
空海は帝の寵をほしいままにしてもお高くとまるわけでなく、民衆の間に入っていって、洪水予防のための堤防を作るなど土木慈善事業などにも積極的に取り組みました。
 
 
また、学問一筋の真面目な最澄が、これまた生真面目にずいぶん年下の空海に弟子入りして密教の経典を教えてもらおうとしたことがあります。
 
 
最澄は忙しい身だったので比叡山をたびたび離れるわけにはいかず、自分の跡を継がせようと思っていた一番弟子の泰範(たいはん)を空海のところに派遣し、代わりに学ばせることにしました。
 
 
空海と最澄は、この「密教教えて」というやり取りで、後に絶交しています。
それについては、真面目にこちらに書いてます。⇒空海と最澄が絶縁?
 
 
そうして空海の元で学んでいるうちに、最澄の一番弟子・泰範は空海の魅力のとりこになってしまったのです。そして、ついに最澄を捨てて、空海に「弟子にさせてください」と頼み込んだのでした。
 
 
最澄、面目丸つぶれですよ・・・
 
 
結果的に、空海に一番弟子を奪われてしまったわけです。それも弟子本人の意思で行っちゃったという始末です。三角関係すら成立しないこの吸引力。
 
 
スーパーカリスマ教祖・空海ならではの逸話なのでした。
 
 
これだけ人望厚い空海様、いろんなうわさや逸話が残るのも無理のない話でしょう。
 
 
かくいう私も、空海大好きなのでした。
 
 
空海と最澄について描いたおすすめ漫画があります。
 
 
肉筆で青年漫画っぽいので好みは分かれると思いますが、内容が詳しくて秀逸なのです! 真魚(空海)が素敵ですよ。

 
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