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こんにちは!
 
 
平安時代、京の都は魑魅魍魎がばっこする(という設定の)おもしろい時代でした。
 
 
夜になってあたりが闇に包まれると、異形のモノたちの時間になるのです。陰陽師が大活躍した時代ですよ。
 
 
そして、ときたま大きな化け物が都の中心に出現することがありました。「鵺(ぬえ)」と呼ばれる妖(あやかし)もその1つです。
 
 
今回は、「鵺(ぬえ)」という奇怪なモノノケを退治した源頼政(みなもとのよりまさ)とその刀剣についてお伝えします。
 
 
刀剣「獅子王(ししおう)」は、中盤に「刀剣乱舞」のキャラ紹介がちょこっと入ります。

 
 

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◆源義政の鵺(ぬえ)退治伝説

 

【出典元:https://ja.wikipedia.org】

 
「鵺(ぬえ)」は、今でもよくジャパニーズホラー作品によく登場する有名な怪物(?)です。
 
 
その様相は「頭がサル、胴体がタヌキ、手足がトラで、尾がヘビ(クチナワ)」といういくつかの獣が合体したキメラのような生き物だったそうです。
 
 
「鵺」の様子は「平家物語」や「源平盛衰記」、「十訓抄」などで伝えられていますよ。

 
 

御所の屋根に黒雲と共に不気味な鳴き声が!

 

【出典元:https://ja.wikipedia.org】

 
平安時代末期、近衛天皇は夜になるのを恐れるようになりました。
 
 
なぜかというと、夜な夜な丑三つ時(午前2時頃)に、宮中の屋根に正体不明の黒雲が現れて、不気味な鳴き声が聞こえるようになったからです。
 
 
帝はその鳴き声を耳にするたび、全身が震えてうなされるようになりました。そうして、とうとう寝込んでしまわれたのです。
 
 
都人(みやこびと)たちは、その正体不明の声の主を「鵺(ぬえ)」と呼び恐れました。
 
 
今でもよく分からない化け物じみた人物のことを「鵺」にたとえることがありますよ。
 
 
このとき御所の警護を任されていたのが、数々の化け物退治伝説を持つ「源頼光(みなもとのよりみつ)」直系の子孫・源頼政(みなもとのよりまさ)だったのです。

 
 

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さすが弓の達人!適当に矢を射たら「鵺」に命中!?

 

 
源頼政(みなもとのよりまさ)(1104-1180)は、羅生門の鬼退治、土蜘蛛退治など数々の妖(あやかし)退治で名をはせた源頼光の玄孫(やしゃご)にあたる人物です。
 
 
同じ「源氏」でも源頼朝・義経兄弟とは違う家筋です。(「源氏」にはいろんな家筋があります)
 
 
そして、頼政は武芸に秀でた「弓の達人」として知られる勇猛な武人でした。化け物(鵺)退治ともなれば、彼以上の適任者はいなかったでしょう。
 
 
その夜、頼政は信頼する部下の猪早太(いのはやた)だけを連れて、2人で化け物が出るという御所の宿直(夜の警護)に当たりました。
 
 
すると、辺りが真っ暗闇に包まれる丑の刻(午前2時ころ)、うわさどおり御所の屋根に黒雲が現れたのです。
 
 
頼政は屋根の上から聞こえる化け物の不気味な鳴き声をたよりにして、「南無八幡大菩薩」と弓の神様の名を唱えながら黒雲の中に1本の矢を解き放ちました。
 
 
放った矢は見事に「何か」に命中し、この世のものとは思えない恐ろしい鳴き声とともに、大きな物体がドサッと地に落ちてきたのでした。
 
 
そこにすかさず猪早太(いのはやた)が駆けよって9回止めを刺し、ようやくその化け物を退治することができたのです。
 
 
灯りをともして確認すると、それは「頭はサル・体はタヌキ・手足はトラ・尾はヘビ」という奇怪な生き物でした。
 
 
頼政は死んだ異形の生き物「鵺(ぬえ)」をバラバラにして、笹(ささ)の小舟に乗せ、鴨川に流したそうです。

 

 

◆刀剣「獅子王」を近衛天皇より賜る

 

【出典元:https://ja.wikipedia.org/獅子王】

 
それから間もなくして、近衛天皇の病は治りました。
 
 
天皇はたいへん喜び、頼政はほうびとして「獅子王」の号を持つ刀剣(太刀)を賜りました。
 
 
「師子王」は「号」であって「銘」ではありません。つまり「呼び名」であって、打った刀工の名(銘)が刻まれていない作者不明の太刀なのです。
 
 
大和の刀工に打たれた太刀(たち)というのは分かっていますが、本来、銘のない刀は「銘刀」に比べ価値は低いものです。
 
 
でも、世の中には「獅子王」のような「無銘の名刀」と呼ばれるものが存在します。
 
 
「獅子王」は、刃長二尺五寸五分(約77.3cm)反り9分(約2.7cm)の大きさで、重ね(刀身の厚み)が薄くて身幅が低い(刀身の幅が狭い)という特徴のある太刀です。
 
 
同時代のものと比べて、全体的に小振りな太刀なのです。

 
 

◆「獅子王」の行方は?

 

 
「獅子王」の持ち主の源頼政は平清盛に仕えたこともあった武将でした。
 
 
70歳を超えて源氏の最長老になったとき、彼は以仁王(もちひとおう)平氏打倒の宣旨にしたがい平氏と戦うことを決めました。
 
 
そして、、宇治の平等院で自ら太刀を腹部に突き立てて自刃し果てたのです。
 
 
自害に使われた太刀が「獅子王」かどうかは不明なのですが、「獅子王」は現存しているのでおそらく別の太刀だと思われます。
 
 
刀剣「獅子王」はその後いろいろな人の手に渡り、徳川家康から「獅子王」を与えられた幕臣(高家)で「源氏」の流れを汲む土岐氏の元で保管されていました。
 
 
そして、明治時代になって、東久世家を通して明治天皇に献上されたのです。現在は「東京国立博物館」に収蔵されています。

 
 

◆源頼政は文武両道の逸材だった!

 

 
源頼政は勇猛な武人として知られていますが、同時に和歌にも通じた文化人でもありました。
 
 
彼が「獅子王」を近衛天皇から賜ったとき、見事な歌を詠んだエピソードが残っています。
 
 
このとき、源頼政に「獅子王」を直接授ける役を務めたのが、当時の左大臣・悪左府と呼ばれた藤原頼長(ふじわらのよりなが)でした。
 
 
教養満点の藤原頼長が源頼政に「獅子王」を手渡す際、サラリと彼に和歌の「上の句」を投げかけたのです。
 
 
「ほととぎす 名をも雲居に あぐるかな」
(ホトトギスの鳴くこの季節、雲を射落として雲居(宮中)に名声を挙げたな)
 
 
すると、頼政はそれを受けて、即座に「下の句」を返して「獅子王」を受け取ったのでした。
 
 
「弓張り月の いるにまかせて」
(弓を張ったような月の輝きにまかせて、弓を射たにすぎません)
 
 
頼長は頼政ならいけると思って「上の句」を投げかけたのか、それともこれぐらいは平安貴族のたしなみとして当然だったのか…?
 
 
でも、その場にいた人々がこの即興の「下の句」を聞いて感心したと伝わるので、かなりの出来栄えだったのでしょう。そして、武芸だけでなく和歌にも優れた人だとますます源頼政の名声は高まったのでした。
 
 
ちなみに、藤原頼長は「台記(たいき)」というせきらら男色日記(書いてたのは男色のことだけではないけど)を残した人として知られます。また、「保元の乱」で唯一の公卿の敗死者でもあります。
 
 
すごく優秀なのにかなりこじれてる興味深い人物ですよ。

 
 

◆「鵺」ゆかりの場所が京都に残っている

 

 
京都市上京区の「二条城」の北西側歩いてすぐのところに「二条児童公園」という公園があります。
 
 
平安時代のこの辺り一帯は「大極殿」を正殿とする「朝堂院」や「太政官」など、当時の政治の中心となる建物のある「官庁街」でした。
 
 
源頼政が射落とした「鵺(ぬえ)」が落っこちてきたのがこの辺りの場所だと伝わっています。
 
 
そして、ここには頼政が「鵺「を射た鏃(やじり)の血を洗い清めたとされる「鵺池(ぬえいけ)」という池もあったそうです。
 
 
今では池はありませんが(昭和時代に作られたモニュメントはある)、「鵺大明神(ぬえだいみょうじん)」を祀る祠(ほこら)と「鵺池」の由来を記した「碑」が建てられていて、「鵺」がいたという証(?)になっています。
 
 
祠(ほこら)まで建てられているところが、本当っぽくておもしろいです。行けるものなら平安時代に行ってみたいです。
 
 
源頼政の高祖父・源頼光が所持していた「羅生門の鬼退治」の名刀「鬼切(髭切)」「土蜘蛛退治」の名刀「膝丸」について、別の記事でお伝えしています。
 
 
いずれも京都に現存する「二振り一具」、双子の「源氏の重宝」ですよー! ご一緒にどうぞ♪

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