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こんにちは。
 
 
西洋音楽の中でも大先生といえば間違いなくこの方、今回はヨハン・セバスチャン・バッハについてお伝えします。

 
 

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◆バロック音楽の確立者バッハ

 

 
西洋のクラシック音楽は、後世このように名付けられ分けられました。
 
 
ルネサンス音楽
 ↓
バロック音楽
 ↓
古典音楽
 ↓
ロマン派
 ↓
近現代音楽

 
 
バッハはその中の「バロック音楽」を集大成した大先生なのでした。
 
 
バロック音楽の代表はバッハヘンデル、この2人を押さえておけばまずは大丈夫でしょう。
 
 
そして、バロック音楽の大きな特徴は楽器が違ったこと、この時代はまだピアノがなかったということです。
 
 
のちの古典派の時代、モーツァルトベートーベンなどの名だたる作曲家の時代になると、鍵盤楽器はピアノが主になっていきます。
 
 
でも、このバロック時代に使われていたのは、「チェンバロ」という楽器でした。
 
 
チェンバロはピアノと同じ鍵盤楽器ですが、ハンマーでたたいて弦を振動させ音を出す打弦楽器のピアノと違って、チェンバロは爪ではじいて弦を振動させる撥弦楽器なので、より軽やかな音が出ます。
 
 
そして、チェンバロは本体に絵を描いたり美しい装飾を施したりすることも多く、楽器であるとともに美しい家具のような存在でした。
 
 
こんな音のする楽器です。バッハの曲でよく演奏されるので聞いたことがあるのではないでしょうか?
 
     ↓

 
小学生が妙な替え歌作って歌ったりしてますけど、大聖堂で聞きたい荘厳なメロディーのフーガです。
 
 
チェンバロは、ルネサンス音楽やバロック音楽で盛んに演奏され、上の動画のように二段鍵盤のものや、音色を変えられる今のオルガンのようなものも登場しました。
 
 
でも、次第にピアノにおされ、18世紀の後半には使われなくなったのです。
 
 
バッハの曲をピアノで弾くとき、「8分音符はレガートで、4分音符はノンレガートで」といわれれるのですが、これが「???」なのです。
 
 
なぜこのように弾くかというと、チェンバロはピアノのように音が伸びなかったので、同じように弾くために長めの音をノンレガートで弾くのですが、これがイラっとするのですよ。(←要するに難しかった)
 
 
でも、チェンバロやパイプオルガンで演奏するキリスト教のムードあふれるバッハの音楽は、神にささげる曲のようでとても美しいと思います。

 
 

◆バッハの簡単な生い立ち

 

 

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(1)ドイツの音楽一家に生まれる

 
 
バッハは1685年、ドイツのアイゼナハという町で音楽一家の元に生まれました。
 
 
日本はちょうど江戸時代、徳川綱吉が「生類憐みの令」を出したころです。そんなに昔ではないですね。
 
 
バッハの父は楽師で伯父も音楽家でした。それで、彼は幼いころから身内に音楽と楽器演奏の英才教育を受けて育ったのです。
 
 
バッハが10歳のとき、両親が亡くなり音楽家の兄のもとに引き取られました。そして、引き続き教会で音楽教育を受けて、才能を磨いていったのです。
 
 
教会では聖歌隊の給費生として勉強し、18歳でアルンシュタットという町の教会にオルガニストとして就職しました。

 
 

(2)「近代音楽の父」と呼ばれる

 

 
それから、彼はいくどか活動の場所をかえながら、教会のオルガニストとして働いたり、教会の音楽監督や宮廷の楽師として働いたりしました。
 
 
音楽活動で刺激を求めて、生涯たくさん旅に出ています。
 
 
そして、私生活では、マリア・バルバラという親戚の娘との結婚しました。バッハは生涯に2度結婚し、20人ほど子供がいて成人したのが10人だったと伝わります。子沢山ですね。
 
 
ワイマールにいたとき、バッハは宮廷オルガニストの職を得てオルガニストとしての名声を高めます。そして、多くの曲を作って作曲家としても認められるようにななりました。
 
 
彼は生涯に1000を超える曲を作曲しています。
 
 
バッハは17~18世紀に流行ったバロック音楽を集大成した音楽家です。それで、後世「近代音楽の父」と呼ばれるようになったのです。

 
 

(3)生まれつき視力が悪く晩年手術に失敗

 

 
バッハは子供のころからたいへん勉強熱心だったのですが、彼は生まれつき視力が弱かったそうです。
 
 
近い親戚の中に何人か同じような視力障害の人がいたので、おそらく遺伝だろうと思われています。
 
 
晩年になると、彼はほとんど目が見えなくなってしまいました。そのとき彼はライプツィヒ市で音楽監督官を務めていたのですが、視力低下のためその仕事を失いかけます。
 
 
それに焦ったのか、バッハはイギリスから来た高名な医師に頼んで視力回復の手術を受けました。でも、それは怪しい手術で、視力が回復するどころかひどい炎症をおこし失明してしまったのです。
 
 
そうして失意の中、バッハは3カ月後に脳卒中を引き起こして亡くなったのでした。

 
 

◆バッハの簡単な年表


・1685年
アイゼナッハに8人兄弟の末っ子として誕生。
 
・1693年
聖ゲオルク教会付属ラテン語学校に入学。
 
・1694年
母・死没。
 
・1695年
父・死没。
オールドルフの長兄に引き取られる。
 
・1700年
リューネブルクに移り聖ミカエル学校に入学。
 
・1703年
ワイマール(Weimar)のザクセン公に宮廷楽師として仕える。
アルンシュタット新教会のオルガニストに就任。
 
・1707年
アルンシュタットを辞職、ミュールハウゼンのブラジウス教会のオルガニストに就任。
マリア・バルバラと結婚。
 
・1708年
ミュールハウゼンを辞職、ヴァイマール宮廷オルガニストに就任。
オルガニストとして各地で演奏し、多くのオルガン曲を作曲。
 
・1714年
ヴァイマール宮廷楽団の楽師長に就任。
 
・1717年
ケーテン候レオポルトの宮廷楽長に就任。
 
・1720年
妻マリア・バルバラ没
 
・1721年
ブランデンブルク辺境伯に協奏曲を献呈。
アンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚。
 
・1723年
ケーテン楽長を辞職、ライプツィッヒの教会の音楽監督兼作曲家・指揮者に就任。
 
・1724年
ニコライ教会にて「ヨハネ受難曲」初演。
 
・17327年
聖トーマス教会にて」マタイ受難曲」初演。
 
・1731年
管弦楽組曲(第2番・3番)
 
・1736年
ザクセン選帝侯から宮廷音楽家に任命。
 
・1747年
ポツダム(Potsdam)にてフリードリヒ大王を訪問。
 
・1749年
視力の急激な低下・手術失敗。脳卒中の発作。
 
・1750年
死去
 

 

 
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