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こんにちは―♪
 
幕末に活躍した新撰組は、戊辰戦争で幕府と共に壊滅しました。
 
しかし、やはり生き残った人はいます。
当時は、まだ戦争時の怨恨から命を狙われることが多かったので、多くの隊士は名前を変えて新選組隊士だったことを隠していました。
 
斎藤一も、その一人です。
 
斎藤一は優秀な隊士でしたが、私はどちらかというと、その後の生き方のほうに惹かれます。もちろん、伝え聞く限りの極一部の情報なのですが、彼は最期まで「剣の道」を捨てなかったように思えるのです。
 
では、斎藤一のその後の様子を、お伝えします。

 
新選組三番組長の斎藤一の情報は、こちらです!
 

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会津戦争に参加して

 

【出典元】wikipedia

 
上の写真は、1897年(明治30年)に撮影された藤田五郎(斎藤一)さんです。
「明治の男」って雰囲気が出てますねー! シブいです!
 
1868年、京都の「鳥羽・伏見の戦い」(1868年1月)の後、新選組は、甲陽鎮撫隊と名を改め「甲州勝沼の戦い」に臨みます。
 
斎藤一は、この戦いも、常に最前線で戦いました。
 
しかし、もうこの甲州の戦いのあたりから、新選組は幕府軍にはやられるわ、内部から崩れるわで、ボロボロになっていきます。
 
それから先は、永倉新八原田左之助など新選組の中核メンバーも離れていき、新選組はちりじりになってしまいます。
そして、1868年4月には、近藤勇が千葉県の流山で捕縛され処刑されました。
 
その後、斎藤一は、どうしたかというと、そのまま新選組の残党を率い、土方歳三と共に会津に向かいます。
 
会津戦争での、新政府軍VS旧幕府軍の、戦力は約75,000対約9,400でした。
会津藩や新選組の残党は、もちろん旧幕府軍です。
 
その頃、斎藤一は、山口次郎と呼び名を変えています。
 
彼は、会津城外で会津藩士の佐川官兵衛らと共に戦いますが、多勢に無勢で、会津城は陥落してしまいました。
 
しかし、彼らは、城が落ちても戦っていて、藩主の松平容保に説得されてようやく投降したのだそうです。根性ありますね。
 
その後、斎藤一は、この会津に留まることを決意し、蝦夷地(北海道)へ渡る土方歳三と、別れます。
 
そして、彼は、そのまま会津藩士と共に暮らし、斗南藩への集団移住にも同行しました。

 

山本八重(新島八重)の親友・高木時尾と結婚

 

 
やがて、新政府による警視庁が設立されると、斎藤一は、他の旧藩士たちと共に上京します。
 
その頃には、斎藤一は、藤田五郎と名乗り結婚していました。
 
会津での一度目の結婚は、離婚に終わりましたが、再婚した相手は、高木時尾という女性です。
 
彼女は、会津藩士の妹で大河ドラマ「八重の桜」のヒロインとなった山本八重の親友でした。
 
山本八重は、同志社英学校(現・同志社大学)を設立した新島襄の妻です。

 

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西南戦争で奮闘し英雄として新聞に載る

 

 
そして、1877年、西南戦争が勃発すると、会津の遺恨を果たそうと、多くの旧会津藩士たちが、今度は政府軍としてこれに参戦します。
 
斎藤一も、これに参戦し、その奮闘ぶりは素晴らしかったらしく、東京日日新聞に掲載されたのでした。
 
凄いですね!
 
おそらく、新選組隊士の中で、もっとも多く、というか、もっとも長く戦っていた人ではないでしょうか。

 

警視庁や学校で勤める

 

 
戦後、東京に戻った斎藤一は、藤田五郎として警視庁に勤めますが、47歳で退職します。その後は、東京高等師範学校(現・筑波大学)などで警備の仕事をしたり、剣術の師範をしたりして過ごしました。
 
斎藤一に剣の指南を受けるなんて、すごい事ですよ!
彼の剣技は、そのときも全く衰えが見られず、誰ひとりとして、その竹刀に触れることさえできなかったそうです。
 
晩年は、穏やかに過ごせていそうでなによりです。

 

最期は「正座」で息を引き取る

 
 
1915年9月28日、斎藤一(藤田五郎)は、胃潰瘍のために、東京都の自宅で死去します。享年72歳でした。
 
斎藤一(藤田五郎)は、大正時代まで存命だったので、数々の逸話が残っています。
 
彼は、非常に寡黙で生真面目な人で、常に正座をして、胡坐(あぐら)すらかかなかったそうです。
 
武士というか、頑固一徹な明治の男という感じがしますね。
 
そして、死に際して、病床から起き上がり、正座したまま息を引き取ったという逸話も残っています。
 
真偽は不明ですが、こういう逸話が残るほどの「漢」だったということですよ。

 

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