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戦国時代初期、美濃国主だった土岐頼芸(ときよりのり)。
平安時代から続く美濃源氏という名門の家でありながら、兄との泥沼の家督争いの末、ようやく美濃守護になれたと思ったら、あっという間に家臣の斉藤道三に乗っ取られ追放の身になってしまったという残念な人です。
下剋上の世ゆえ幸薄い印象のある人ですが、道三に美濃を乗っ取られたのは、本人のやる気のなさも大きかったと思われます。
芸術家肌の武人って、こんな感じなのかもしれません。
美濃の名門・土岐氏
土岐氏は平安時代にこの地に定住して勢力を拡大し、南北朝期から代々美濃守護を務めた名門の一族です。
1502年、土岐頼芸(ときよりのり)は、美濃守護を務めていた土岐政房の次男として生まれました。
そのころの美濃国は斎藤家が守護代を務めていましたが、勢力はかなり弱体化していて、斉藤氏の庶流で小守護代だった長井家が勢力を伸ばしていました。
兄弟の泥沼家督争いが勃発
1517年、そんな不安定な情勢の中、土岐政房の息子の間に家督争いが勃発していしまったのです。
父の政房が嫡男・頼武を差し置いて、次男の頼芸に家を継がせると言い出したため、家臣が真っ二つに分裂して争うようになったのでした。
頼信と頼芸は勝ったり負けたり、追放されるとまた力をつけて奪い返しと、なかなか決着はつきませんでした。
1519年、越前国の朝倉孝景に支援された頼武が勝利し、頼芸は美濃守護を兄に奪われてしまいました。
ところが、頼芸はあきらめずにその後もチャンスをうかがい、ついに1530年、兄・頼武を越前国へ追放し、美濃の実権を勝ち取りました。
ちなみにこのとき頼芸側に味方した家臣の中に、長井長弘という人がいました。
長井長弘は実力次第で家臣を採用する人で、油の行商人だった逸材を大抜擢していました。それが長井新左衛門尉という人物で、その息子が後の斎藤道三です。
斎藤道三の美濃乗っ取り
この家督争いの勝利には長井親子(斎藤道三とその父)の活躍があったので、土岐頼芸は2人を厚遇しました。
そして、領土の内乱を治めた後の1536年、土岐頼芸は正式に美濃の守護職に就任したのです。
ところが、そんな喜びもつかの間、その5年後に弟・頼満が家臣の斎藤道三に毒殺される事件が起こりました。
この一件で頼芸と道三の仲は険悪になり、頼芸は道三に美濃国を乗っ取られ尾張国へと追放されてしまいました。(諸説あり)
その後、美濃は道三が息子・義龍に討たれ、義龍の息子・龍興の代で尾張の織田信長に滅ぼされました。勢力の移り変わりが目まぐるしいです。
表舞台から消えたまま案外長生き
斎藤道三に国を奪われた土岐頼芸は、どうなったのでしょう?
美濃守護に就任した頃も、斎藤頼芸は燃え尽きてしまったのか、家のことは道三に任せっぱなしでやる気なしでした。
だから、美濃を盗られたのは自業自得な面もあると思います。ヤバイと思ったときには、もはや家臣も道三に味方していて手遅れだったのです
そうして追放された頼芸が、その後どうしていたのかというと・・・
身内の縁を頼って、近江国の六角氏、常陸国、甲斐国と庇護を求めて転々としていたのでした。
そして、織田信長の武田征伐の際、甲斐・武田氏に庇護されていた土岐頼芸が信長の目にとまったのです。
すでに80歳のおじいさんになっていた土岐頼芸は、旧臣で信長の家臣になっていた稲葉一鉄のはからいで、ラッキーなことに美濃国に戻ることができました。実に追放されてから30年あまり後のことです。
それから数か月後、土岐頼芸は81歳で亡くなりました。
彼が亡くなったのは1582年12月、その半年前に「本能寺の変」で織田信長が討たれています。
なんだかんだいって信長より長生きしたのでした。
まるで芸術家?「鷹の絵」がプロ並みにうまい!
土岐氏は美濃の守護家として武芸だけでなく、和歌・連歌・漢詩などの文芸に深いたしなみを持ち、猿楽、舞、絵画など芸能・芸術に大きな関心を持つ一族でした。
土岐氏のような守護家は応仁の乱以前は京都に滞在していることが多かったので、最先端の京の文化を美濃へ伝えることができたのです。
そうして、京で身につけた公家文化を積極的に取り入れて、独自の武家文化を作っていきました。
絵画で、土岐頼忠、土岐頼芸、土岐富景、土岐頼高等らが好んで描いた「鷹の図」は、特に高評価されていて、総称して「土岐の鷹」と呼ばれています。
「土岐の鷹」は土岐氏の代名詞の1つになりました。
土岐頼芸は戦国時代の武人として生きるより、芸術家として生きるほうが向いていたのかもしれません。
同じく名門で公家文化が大好きだった今川義元の息子・今川氏真(うじざね)と、嗜好や生き方が似ている気がします。
武士としてはふがいなくても別分野で秀でていたので、別にいいじゃんと思ったりするのでした。
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