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斎藤義龍(さいとうよしたつ)は斎藤道三の嫡男で、父の道三を「長良川の戦い」で討ち滅ぼしたことで知られます。
父が子を子を父が、兄弟同士で相争うまさに下剋上の世でした。
斎藤道三は織田信長の舅(しゅうと)でもあります。
その息子・斎藤義龍がどういう人物だったのか、エピソードを交えてお伝えします。
父に毛嫌いされた嫡男
斎藤義龍(さいとうよしたつ)は、1527年に斎藤利政(後の道三)の嫡男として生まれました。
母は道三の側室・深芳野(みよしの)という女性です。
深芳野は、美濃守護・土岐頼芸の愛妾でしたが、道三が譲り受けて側室にしたのです。
1554年に斎藤道三が隠居すると、嫡男の義龍は22歳で斎藤家の家督を継ぎ稲葉山城主となりました。
でも、なぜか斎藤道三は義龍を「無能」と決めつけて毛嫌いしました。そして、他の息子たち、斎藤孫四郎や斎藤喜平次ら「利口者」とえこひいきしたのです。
ただかわいがって贔屓するだけならまだしも、本気で義龍を廃嫡しようとしたから大変です。道三は正室「小見の方」の子・斎藤孫四郎を嫡子にしようと画策したのでした。
その上、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門・一色氏を名乗らせました。
これに危機感をもった義龍と道三の関係は最悪になりました。当然ですね。嫡男としてはおもしろくないどころかひどい扱いです。
弟刺殺と父殺し「長良川の戦い」
1555年、斎藤義龍は叔父・長井道利と共謀して仮病を装いました。そして、見舞いにきた弟の斎藤孫四郎、斎藤喜平次らを日根野弘就に殺害させたのです。
驚いたのは道三です。道三はそれを知るとすぐに大桑城に落ち延びました。
そして、翌1556年、斎藤義龍は父・道三を討つために挙兵しました。これが「長良川の戦い」です。
斎藤家の重臣の多くは、強引に美濃を手に入れた道三ではなく義龍の味方をしたため、決着は早くつきました。
義龍の戦いの段取りはたいしたもので、ほぼ同時期に別動隊を投入して反対勢力を攻めさせていました。
その1つが明智城の攻防戦です。この戦いで明智城は落城し、明智光秀の叔父・光安が自刃しました。
斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)を正室にしていた織田信長は、舅の救援に駆けつけましたが間に合わず、斎藤道三は息子に討たれました。
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内政に力を注ぐも35歳で若死
義龍が父を討ったのは恨みもありましたが、内政を顧みない道三の施策を批判した重臣主体のクーデタではなかったかという説もあります。
1565年に義龍に追放された道三が、翌年「長良川の戦い」で家督奪還のために兵を挙げたとも考えられているのです。
斎藤義龍は父の死後、出家して長年の内乱で混乱した美濃を立て直そうとを力を注ぎました。そして、重臣の意見を取り入れる合議制の導入など国の体制の基盤を作ったのです。
1558年、斎藤義龍は治部大輔に任官し、翌年、足利幕府相伴衆に列せられました。
ところが1561年5月11日、斎藤義龍は35歳の若さで急死してしまいます。持病があったそうです。
家督を継いだのは嫡男の龍興でしたが、突然の家督相続だったため家臣ともども対応できず、斎藤家は一気に弱小化していきました。
そうして最後は、織田信長に滅ぼされました。
龍興自身は戦から逃れ越前の朝倉家へ身を寄せましたが、その後、朝倉家と織田家との戦いに出陣し26歳のとき討死しました。
斎藤道三は実の父ではなかった?
斎藤義龍の実父は、斎藤道三ではなく土岐頼芸だったという説があります。
義龍の母・深芳野はもともと土岐頼芸の愛妾で、道三に下賜されたのですが、そのときにはもう義龍を身ごもっていたのではないかという疑惑があるのです。
DMA鑑定でもしないかぎり真偽は分かりませんが、道三がなぜか義龍を毛嫌いしていたことから、そういううわさが広まったのです。
でも、これはただのうわさだというのが意見が主流です。
でも、もしもそうだったら、土岐頼芸は斎藤道三に討たれたので、義龍は実の父を討った相手を滅ぼしたことになりますね。
そのほうが義龍にとっては「父殺し」から「父の敵討ち」に変わるので汚名を残さず印象がよくなります。
いずれにせよ、この時代の美濃は土岐氏のいろんな家が婚姻で結びついていたので、人間関係がドロドロしています。(この地だけではありませんけど)
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