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斎藤利三(さいとうとしみつ)は、明智光秀の古参の家臣で「明智五宿老」の1人に数えられる重臣です。
 
 
また、彼の娘「お福」は、徳川3代将軍家光の乳母「春日局」になります。娘が春日局ということで、明智光秀の家臣の中では、わりとよく知られている人です。

 
 

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勇将・斎藤利三の誕生

 

 
斎藤利三(としみつ)は、1534年(諸説あり)に、美濃の白樫城主・斎藤利賢の次男として生まれました。
 
 
母はよく分かっておらず、明智光秀の妹か叔母の娘、蜷川親順の娘ではないかなどいろいろ考えられています。
 
 
斎藤利三の斎藤家は、同じ土岐氏の斎藤道三の家系とは別系です。
 
 
こちらのほうが、もとの由緒ある美濃斎藤氏の一族ともいわれます。
 
 
明智光秀の叔母が斎藤利三の父・利賢の継室になっていたため2人は親類でした。
 
 
斎藤利三には名門の石谷家に婿養子にな入った兄がおり、石谷家は四国の長宗我部家と2代に渡って婚姻による縁組をしていました。
 
 
つまり、斎藤利三と長宗我部元親も親族でした。
 
 
斎藤利三は始めは美濃の斎藤義龍、次いで稲葉一鉄に仕えましたが、稲葉一鉄といさかいを起こし、1570年に親戚筋だった明智光秀を頼って家臣になりました。
 
 
明智光秀は斎藤利三を明智秀満と並ぶ明智家筆頭家老として重んじています。
 
 
利三は明智光秀の丹波平定後には黒井城を任されるほどの信任を得ています。

 
 

「本能寺の変」怨恨説の首謀者か?

 

 
1582年、斎藤利三は稲葉一鉄の家老・那波直治を明智家の家臣に引き抜こうと画策したのですが、それがまずいことに稲葉側に発覚してしまいました。
 
 
これを知った稲葉一鉄は織田信長にそのことを直訴し、聞いた信長は激怒しました。
 
 
信長はすぐに明智光秀を呼びだし、「那波直治だけでなく元稲葉家の家臣だった斎藤利三も返せ」と命じましたが、光秀はこれを断固拒否しました。
 
 
とすると、光秀の態度に再び激怒した織田信長は、今度は「斎藤利三を切腹させよ」「那波直治は稲葉家に戻せ」と命じました。
 
 
それから光秀がどうしたのかというと、わずか4日後に「本能寺の変」が起こったのです。
 
 
斎藤利三と明智光秀にとっては、絶妙のタイミングでしたね。これが怨恨説の根拠の1つです。
 
 
もう一つの根拠は、明智家と長宗我部家の関係にあります。
 
 
2014年になって、「本能寺の変」直前に斎藤利三が四国の長宗我部元親とやりとりした書状が発見されました。
 
 
それまで長宗我部元親は織田信長に徹底抗戦するつもりだったと考えられていたのですが、書状の内容から長宗我部は信長に降伏する意向があったと分かったのです。
 
 
長宗我部元親は親戚筋の斎藤利三をたどって明智家に働きかけたのでした。つまり、「本能寺の変」の直前、明智家は長宗我部家と織田家との和睦に向けて外交交渉をしていたと考えられるのです。
 
 
でも、織田信長はそれを無下にして四国攻めを決定し、織田信孝を大阪方面に向かわせる準備を始めました。
 
 
明智家と親戚の斎藤家の面目は丸つぶれですね。
 
 
このような信長の心ない扱いに対する鬱憤が重なり、明智光秀は我慢の限界を超えて信長を討ったのではないかと考えられます。
 
 
織田信孝の四国攻めの出立日がまさに「本能寺の変」の起こった6月2日だったことからも、いろんなことがバシッとその日にはまって、謀反を起こしたのではないでしょうか。

 

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「本能寺の変」後は?

 

 
明智光秀は信長打倒の謀反の計画を、5月末に五宿老の斎藤利三、明智秀満、明智光忠、藤田行政、溝尾茂朝に相談しました。
 
 
重臣たちは、みな無謀な計画だと始めは反対しましたが、最終的に決行すると決まりました。斎藤利三は先鋒として本能寺に斬り込んでいます。
 
 
1582年6月2日、「本能寺の変」で織田信長を討った後、利三はいったん佐和山城に入って柴田勝家らを警戒しました。
 
 
その後、羽柴秀吉との「山崎の戦い」に参戦し、先鋒として円明寺川東岸に布陣して応戦しましたが敗退しました。そして、ついに近江の堅田で捕縛されたのです。
 
 
最後は、羽柴秀吉の命により京都・六条河原で斬首されたと伝わります。(諸説あり)

 
 
斎藤利三は、明智光秀にかなり信用されていた重臣で優れた武将だったと考えられます。
 
 
明智家に関する記事はこちらにもあります。よろしければ合わせてどうぞ。
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