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こんにちは。
 
 
今回は、江戸幕府、そして日本の最後の将軍、徳川慶喜について!
 
 
彼がどんな人だったのか、簡単にまとめていきます。

 
 

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水戸藩主の息子として誕生

 

 
慶喜は、1837年に水戸徳川家の9代目藩主・徳川斉昭(なりあき)の7男として誕生しました。
 
 
彼は幼い頃から聡明な子だったので、父の徳川斉昭(なりあき)は、正嫡に万が一のことがあった場合、慶喜を後継にしようとしていたようでした。
 
 
でも、慶喜が10歳のとき、12代将軍・徳川家慶(いえよし)から親戚筋の一橋家の養子になるようすすめられ、一橋慶喜となりました。
 
 
そして、1853年の黒船来航で日本が混乱する最中、家慶が死去すると、次の将軍の後継者問題に巻き込まれました。
 
 
この後継者問題は勢力争いで負け、井伊直弼による「安政の大獄」で処罰されてしまい、謹慎生活を送ることになりました。
 
 
その後、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されるとすぐに謹慎は解かれて、政治の表舞台に戻ります。
 
 
そして、14代将軍の後見職になり、徳川家をもりたてていったのです。
 
 
1864年には「禁門の変」と呼ばれる幕府と長州藩の戦いが起こり勝利を勝ち取りました。
 
 
1866年に第14代将軍・徳川家茂が死去すると、第15代将軍に就任しました。
 
 
その後、「大政奉還」から「戊辰戦争」を経て明治時代になるまで、動乱の時期を生き抜きました。
 
 
明治維新後は、隠居先の静岡で、趣味人としてゆったり生活を送っています。
 
 
その後、東京都文京区に移住し、貴族院議員に就任して議員の職を8年間務めましたが、再び隠居生活に戻って、76歳の生涯を閉じました。

 
 

徳川慶喜を語る2つのポイント

 

 
徳川慶喜に対する後世の評価は、分かれます。
 
 
良い評価は、なんとしてでも戦争を回避しようと尽力し、日本が欧米の植民地になるのを防ぎ、江戸が戦火に見舞われるのを防いだというもの。
 
 
悪い評価は、とにかく卑怯なヤツ、根性なし、自己保身だけは完璧というものです。
 
 
私はどちらの評価も正しいと思います。
 
 
でも、彼は武家の総大将「征夷大将軍」というよりは、抜け目のない政治家みたいだなーと思います。

 
 

(1)大政奉還~戦争するのはイヤ!

 

 
「大政奉還」は、徳川幕府が政治の実権を天皇に返還するというもの、つまり、徳川家から天皇家への平和的な政権交代でした。
 
 
通説では、坂本龍馬がこの案を考えて、それを土佐藩主が慶喜に提案したということになっています。
 
 
このときは、すでに薩摩・長州などによる江戸幕府を倒そうという動きが大きくなっていました。
 
 
坂本龍馬と徳川慶喜のこのときの共通点は、なんとしてでも大きな内乱は避けたいという思いでした。
 
 
内乱が起こると、日本を植民支配しようと狙う欧米列強の思うツボです。
 
 
当時、新政府側(薩摩・長州)にはイギリスが、徳川幕府側にはフランスがバックについていました。
 
 
そのことに気づいていた慶喜は、今、新政府軍と幕府軍の戦いが起れば、それぞれに武器を売るイギリスとフランスの代理戦争になり、最終的に日本の領土は勝者の植民地にされるだろうと恐れていたのです。
 
 
イギリスとフランスは、ヨーロッパだけでなく世界各地で敵対し戦ってきた長年の宿敵同士です。
 
 
それで、徳川慶喜は「大政奉還」を行って武力衝突を避けたのでした。
 
 
なぜなら政治の実権を朝廷に返すとことで、新政府軍が幕府軍を倒す理由がなくなるからです。
 
 
でも、「大政奉還」をしたところで、朝廷に全国を治める政治ノウハウはありません。だから、結局これまで260年間培ってきた徳川幕府の政治力に頼らざるを得ないだろうと慶喜は予想していました。
 
 
倒幕派(薩摩・長州)にとって、これでは何も変わらないということで、結局、新政府軍と旧幕府軍は武力衝突してしまったのです。
 
 
それが、日本最大の内乱「戊辰戦争」でした。
 
 
この「大政奉還」は歴史的に大きな意味があります。
 
 
源頼朝が開いた「鎌倉幕府」の時代から、約680年間続いた日本の「武家政権」がこのとき終了したからです。
 
 
慶喜の行動をサラッと追うと、薩長と戦争したくないから「大政奉還」するなんて卑怯なヤツと思ってしまいます。
 
 
いろいろ難しかったのはわかりますが、やっぱり「征夷大将軍・武家の棟梁なら武士らしく正々堂々と戦うべし!」と思ってしまうのでした。
 
 
慶喜は頭が良いだけあって、政治家としてはかなり有能です。

 

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(2)戊辰戦争~やっぱり戦うのはイヤ!

 

 
「戊辰戦争」とは慶喜を朝敵にして、幕府とそれに組する諸藩を倒して新政府の樹立を目指す薩摩、長州を中心とした武力クーデターのことです。
 
 
旧幕府軍の総大将は徳川将軍のはずですが、その初戦「鳥羽・伏見の戦い」から、彼は風邪を引いたと言って「仮病」をつかい、大坂城から動きませんでした。
 
 
そうして、兵たちには「最後の一兵になるまで戦え!」と命じ、自分は側近をつれて船で江戸へ逃亡してしまったのでした!
 
 
逃亡したのには彼なりの理由があったのですが、いくらなんても総大将としてこれは卑怯すぎるでしょう。
 
 
実は、慶喜の出身の水戸藩は、尊王思想のものすごく強い勤王家でした。
 
 
「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば、とまどうことなく帝を奉ぜよ」との家訓のあった藩なのです。
 
 
彼は自分の信念「朝廷に弓引きたくない」という信念に従って行動し、兵を見捨てたのでしょう。
 
 
人を動かすのは難しく、上に立つものは、自分の思い通りにならないことだらけです。西郷だって大久保だって木戸だってそうでした。
 
 
でも、あえて泥をかぶることができる人とできない人がいます。
 
 
徳川慶喜は、それができない人だったと思います。

 
 

慶喜の人柄・特徴は?

 
 
慶喜は、身長が150cmぐらいだったそうです。これは当時の男性の平均身長よりも5cmほど低いです。
 
 
一方、西郷隆盛は180cm近い高身長でした。それにガタイもよいです。
 
 
間近で言い争ったら圧倒されそうですね。
 
 
薩長の人たちは野山を駆け回って育っていたからか、体格の良い人が多いようです。
 
 
そんなチビの慶喜ですが、徳川将軍家で一番長生きしています。(76歳)
 
 
間違いなく、明治維新以降、ストレスの少ない生活していたからですよ。
 
 
彼は晩年、政治にはまったく興味がなく、趣味の世に生きました。
 
 
写真、油絵、狩猟、弓道・・・
 
 
どれもかなりの腕前だったようです。
 
 
また、新しい物好きで、自転車や自動車が入ってくると、いち早く注文して楽しんでいたそうです。
 
 
余生エンジョイしすぎだろ~っ!
 
 
そして、食生活はというと、「豚一殿」というあだ名で呼ばれるほどの豚肉好き。(「豚一」の「一」は一橋家の「一」)
 
 
明治維新の頃、まだまだ日本人は公には獣肉を食べませんでした。でも、彼はそんな周囲の反応なんてまったく気にせず、横浜の港が開放されると、真っ先に豚肉を取り寄せていたそうです。(「豚肉送って」という直筆手紙も残っている)
 
 
豚肉はビタミンB1の含有量が多く、タンパク質も良質、疲労回復や美容によいことで知られます。
 
 
また、晩年はタイ、カツオなどの刺し身やウニ、ナマコなど淡泊な和食を好んで食べていたそうです。
 
 
お金のある趣味人ってうらやましい・・・
 
 
と思うのでした。

 

徳川慶喜の簡単年表


 
・1837年(0歳)
水戸藩主・徳川斉昭の7男として誕生
 
・1857年(20歳)
徳川家の一族・一橋家の養子に
一橋慶喜と名乗る
 
・1857年(20歳)
第13代将軍・徳川家定の世継ぎ候補に
→このとき、14代将軍は徳川家茂(いえもち)に決定
 
・1859年(22歳)
井伊直弼の「安政の大獄」で謹慎処分を受ける
 
・1859年(23歳)
井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺
→政治の表舞台に復帰
 
・1864年(27歳)
「禁門の変」
→幕府軍を指揮し長州藩を退ける
 
・1866年(29歳)
第14代将軍・徳川家茂が病死
→徳川第15代将軍に就任
 
・1867年(30歳)
「大政奉還」
→幕府の持つ政権を天皇に返上
 
・1868年(31歳)
「戊辰戦争」
→江戸城明け渡し
 
・1913年(76歳)
病没

 
 
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