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近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)といえば「心中もの」で大ヒットした、文楽(人形浄瑠璃)の脚本家です。
 
 
もっとも有名な作品「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」は、本当にあった「心中事件」をモチーフにしたもので、2人が情死した「露の森」の近くの神社には、今も彼らの像がありますよ。
 
 
そのゆかりの神社・露(つゆ)天神は大阪第三ビルのすぐそばにあって、心中した女性の「お初」の名にちなんで「お初天神」とも呼ばれています。
 
神社も行ってきましたよ。⇒★こちらをどうぞ♪
 
都会のど真ん中、ビルの合間のすごい場所にあります。
 
 
近松門左衛門は江戸時代・元禄文化の上方代表の文化人で、「文楽」(人形浄瑠璃)や歌舞伎の脚本家として活躍した人でした。
 
 
でも、彼は生まれは上方(大阪・京都)ではなかったようなんですよ。
 
 
今日は近松門左衛門の生い立ちや才能、そしてその代表作についてご紹介します。

 
 

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近松門左衛門の生い立ち

 

 
1653年、近松門左衛門は、越前国(福井県)の武士の次男として生まれました。実家は武家で上方生まれではなかったんですね。
 
 
でも、近松門左衛門が幼いころ父親が武士勤めを辞めて、一家で京都に移り住んだのでした。
 
 
京都に出たことで彼は公家の屋敷で働くことができました。そして、そこで公家流の知識や教養を身につけることができたのです。
 
 
当時、京都では浄瑠璃(じょうるり)が人気でした。浄瑠璃というのは、大人向けの人形劇のようなものです。
 
 
近松門左衛門は公家から学んだ知識を用いて、宇治嘉太夫という人の元で学び、浄瑠璃の脚本を書くようになりました。
 
 
そして、1675年、22歳の若さで彼は人形芝居の一座を立ち上げて独立しました。彼の書いた「出世景清(しゅっせ かげきよ)」は近世浄瑠璃の始まりとされています。
 
 
その後、1793年には歴史的に有名な大ヒット作「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」が上演されました。
 
 
この演目のテーマの「心中」は人々の間でブームとなり、実際に心中事件がひんぱんに起こり社会現象となりました。
 
 
その後も彼は、「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」など生涯で100作以上の浄瑠璃や歌舞伎の脚本をてがけました。
 
 
そうして、72歳で亡くなるときまで精力的に脚本を書き続けたのでした。

 
 

近松門左衛門の代表作

 

 
近松門左衛門は近世浄瑠璃の世界を開拓した人物で、当時とても人気があった脚本家であることがわかります。
 
 
そんな近松の代表作を、5つご紹介します。

 
 

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(1)「出世景清」(しゅっせかげきよ)

 
 
「出世景清(しゅっせかげきよ)」は、近松門左衛門が20代で書き上げたデビュー作です。
 
 
平安時代末期に源平の合戦で平家が滅亡した後、なおも源頼朝を討ち取ろうとした藤原景清(悪七兵衛)の苦悩を描いた作品です。
 
 
藤原景清はこれまでも芝居の題材によく使われましたが、近松はこれに義太夫節という独特の曲調を交え新しい演出をしたのです。
 
 
そうして、近世浄瑠璃という新たな世界を作り出しました。

 

 

(2)「曽根崎心中」(そねざきしんちゅう)

 

 
近松門左衛門の代表作といえばこの作品です!
 
 
「曽根崎」は、今の大阪の中心地・梅田にある地名です。先日、大丸梅田店に用事があり、そのついでに足を伸ばしたのですが、ごちゃごちゃしたビルのはざまにありました。
 
 
「曽根崎心中」は、曽根崎で実際にあった事件をモチーフにして描かれた作品です。
 
 
元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地天満屋の遊女「はつ(本名:妙)」と内本町の醤油商平野屋の手代「徳兵衛」が西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した事件を題材にしたものでした。
 
 
この事件以降、その場所の近くになる露天神社はお初天神と呼ばれるようになり、現代も「恋人たちの聖地」とされています。
 
 
遊女との恋は、成就しない恋のテンプレですね。
 
 
近松門左衛門はこの作品で「世話物」というジャンルを作り出すことに成功しました。
 
 
この作品は、心中事件を急増させるという社会現象を起こし、江戸幕府から上演禁止の命令を出されたこともありました。
 
 
先日、露天神に行きましたので、その様子をまたお伝えしますね。

 
 

(3)「心中天網島」(しんじゅうてんのあみじま)

 
 
こちらも近松の大人気ヒット作、現代でも人気の演目です。タイトルのとおり、またまた心中ものです。
 
 
あらすじは、大坂天満の紙屋の主人「治兵衛」と曽根崎新地の「小春」という遊女が情死(心中)したというもの。
 
 
治兵衛は新地の遊女・小春と恋仲になったのですが、彼には「おさん」という妻がいました。
 
 
2人のことを知ったおさんは、小春に夫と別れて欲しいという手紙を出し、また、治兵衛の兄も別れるように小春を説得します。
 
 
小春はおさんの気持ちを汲み取り、身を引き別の人に身請けされることになりました。
 
 
それを聞いたおさんは、小春が死を覚悟しているかもしれないと助けたいと思いますが、父親に実家に連れ戻されます。
 
 
そして、小春は治兵衛とともに、網島の大長寺で心中して果てたのでした。

 
 

(4)「冥途の飛脚」(めいどのひきゃく)

 

 
大阪の飛脚問屋の養子だった忠兵衛が、梅川という遊女に入れあげて、身請け(身代金を払い仕事を辞めさせること)したいと望み、大名に届けるはずの300両を使い込んで駆け落ちするという話です。
 
 
最終的には当然ですが、大和の国(奈良)で捕まっておしまいという悲劇です。
 
 
遊女にのぼせたアホな男と遊女との駆け落ちや心中は近松の得意な設定で、当時の上方でとにかく人気の題材だったようです。
 
 
そういえば、西洋のオペラもこういう設定の作品が多いです。おもしろいですね・・・
 
 
私はこのタイトルが、かなり好きです。

 
 

(5)「国性爺合戦」(こくせんやかっせん)

 
 
「国性爺合戦」は、読み仮名に注意ですよ。「こくせんやかっせん」と読みます。
 
 
この話は中国人の父と日本人の母を持つ鄭成功(国性爺)という主人公が、中国王室の復興を目指して活躍する姿を描いた作品です。
 
 
江戸時代は、外国の文化や情報がなかなか上方まで入ってきませんでした。
 
 
それで、中国人の父を持つ異国(中国)が舞台の話という設定が人々にとても新鮮に感じられ、大ヒット作品になったのです。
 
 
この作品は、今でもは歌舞伎の名作として人気の演目となっています。

 
 

近松門左衛門の簡単年表

 

 
・1653年(0歳)
越前国(現在の福井県)で誕生。
武士・杉森信義の次男。
 
・1664年(11歳)
一家で京都に移住。
公家に仕えて暮らし始める。
時期は定かではないが、当時京都で流行していた浄瑠璃の語り手である宇治嘉太夫のもとに身を寄せ、浄瑠璃の脚本を書き始める。
 
・1683年(30歳)
「世継曽我」を発表。
近松門左衛門の処女作。
 
・1685年(32歳)
「出世景清」を発表。
 
・1693年(40歳)
歌舞伎の脚本も書き始める。
 
・1703年(50歳)
「曽根崎心中」を発表。
社会現象を引き起こす。
 
・1715年(62歳)
「国性爺合戦」を発表。
ロングヒットを記録する。
 
・1725年(72歳)
死没。

 
 
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