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今回は、あの信長の息子にしてなんでやねんとツッコみたくなるようなゆかいな息子・織田信雄をご紹介します。

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信雄と書いて「のぶかつ」と読みますよ。
 
 
信長には11人(異説あり)息子がいたそうで、そのうちの1人、最愛の女性・吉乃(きつの)との間の次男です。
 
 
なんとも残念な人なんですが、こういう人に限ってしぶとく生き残り現代まで続く子孫を残したというというのが、この世界の楽しいところです。
 
 

織田信雄・晴れて伊勢国主となる

 

 
天下統一を目指して進撃中の織田信長、彼が治める尾張国の西には、北畠具教が治める伊勢国がありました。
 
 
1569年、織田信長が伊勢の大河内城に攻めこみ、窮地に陥った北畠具教はなんとか生き残ろうと考えました。そのとき白羽の矢が立ったのが、信長の次男・織田信雄でした。
 
 
北畠具教は息子・具房と織田信勝を養子縁組する事で、織田信長と和議を結んだのでした。
 
 
織田家の思惑は、息子を養子縁組させて内部に入り込み中から北畠家を乗っ取ろうというものでした。
 
 
織田信雄は成人すると北畠具房の妹・雪姫と結婚し、数年後には北畠家の家督を継いで、北畠具意(のぶおき)と名乗りました。思惑どおりですね。
 
 
家のことに口出しする織田家を面白く思っていなかった北畠具教は、信長の敵・武田信玄と内通していました。ちょうど武田が織田・徳川連合軍に圧勝した「三方ヶ原の戦い」の頃です。
 
 
でも、この内通が信長に知られてしまい、北畠家を滅ぼす動機になってしまいます。
 
 
織田信長と北畠信意(織田信雄)は、北畠具教を始めとした北畠家の主要人物を一気に暗殺してしまったのです。(三瀬の変)
 
 
北畠具教はへたれ大名ではなく誰もがみとめる「剣豪」でした。このとき襲ってきた敵を20人ほど切り倒し、100人以上に手傷を負わせたと伝わります。
 
 
で、北畠家が滅んだあと、伊勢国は織田信雄のものとなったのです。
 
 
でも、これは織田信雄の手柄じゃありません。たなぼたです。
 
 
画策したのも実行の指示を出したのも、父ちゃんでしたから。

 
 

勝手に伊賀に攻め入り撃沈「第一次天正伊賀の乱」

 

 
ここから先が信雄の華々しい(?)バカ殿伝説の始まりです。
 
 
もう、とにかく何をやっても「え???」となる、やることなすことへたれな愉快な人でした。
 
 
まず1579年、織田信雄は、1万もの軍勢を率いていきなり勝手に伊賀に侵攻しました。父ちゃんに無断で・・・
 
 
映画化もされた小説「忍びの国」は、この辺りの出来事がメインです。
 
 
そう、伊賀といえば忍者、忍者といえば伊賀というほど、伊賀の国衆は「忍び」、そう、主に「傭兵家業」で生計を立てている武闘派集団でした。
 
 
そんな国に、織田信雄は、父ちゃんに無断で勝手に乗り込んでいったわけですよ。
 
 
忍者の戦い方は武士の戦い方と異なります。奇襲に夜襲、ゲリラ戦に得意の火薬を使ったかくらん作戦、1万の兵はこれに翻弄され、信雄は殿(しんがり)を務めた織田家の重臣・柘植保重を犠牲にして、命からがら逃げかえりました。
 
 
無駄な戦いをした上に、信頼していた柘植保重を亡くしたと聞いた織田信長は、言語道断と大激怒です!!!
 
 
「柘植保重を殺したなんて言語道断! もうお前とは親子の縁を切る!」
 
 
と、本気で怒りまくっていたと分かる手紙が残っています。
 
 
それからしばらくの間は、さすがのバカ殿も大人しくしていたようです。父ちゃんに叱られてしょぼんとしていたのでしょうか。

 

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本能寺の変で謎の撤退・安土城放火ってほんまでっか?

 

 
1582年、「本能寺の変」で織田信長が自害に追い込まれました。
 
 
このとき、伊勢にいた織田信雄のもとにも「信長自害」の報告が入ります。
 
 
これは一大事と出陣したところまでよいのですが、なぜか信雄、甲賀(滋賀県)のあたりまできて引き返しています。
 
 
伊勢(三重県)は本能寺のある京都とはわりと近いです。途中に近江(滋賀県)があるので、安土城や坂本城にすぐ駆けつけられます。
 
 
でも、おそらく彼は道中「山崎の合戦」の勝敗の知らせを受けたのでしょう。
 
 
それでも普通は父ちゃんの弔い合戦だと明智の重臣を追い詰めるものですが、実際他の織田家家臣はそうしたわけですが、この人は深追いしませんでした。
 
 
あ、1つやったとうわさされることがあります。
 
 
それが、伊勢への帰りに何を思ったのか、明智の残党をあぶりだすのだと安土城を占拠したあげく火を放ったというもの。
 
 
安土城といえば、信長の城の中でも特別へんてこ、じゃない豪華で奇抜なデザインのお城です。
 
 
日本で最初の天守を持つ城・5層7階の天守のあったユニークなお城でした。
 
 
信雄が放火したと伝えたのはルイス・フロイスです。
 
 
彼は信雄のことを「普通の人よりアホ」とはっきり書いていて、おいおい、当時の人間(しかも外人)にも愚か者と思われてたんかいと思うのですが、さすがにこれはやっていないだろうという説もあります。(明智の残党が放火したという説)
 
 
そんなこんなで、まったく弔い合戦に参加しなかった(できたのにしなかった)織田信雄は、清須会議の前に父ちゃんの後継によろしくと秀吉に媚びてたそうですが、相手にされませんでした。
 
 
そう清須会議では、秀吉は織田信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)を、一方の柴田勝家は織田信孝を後継に推薦したのでしたね。信雄、無視されました。
 
 
でも、このとき織田信雄は、伊勢の他、南伊勢、伊賀、尾張を領有する事になり大大名にレベルアップしました。父ちゃんの威光なだけですけど。

 
 

戦の度にあちへふらふらこっちへふらふら

 

 
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の間で勢力争いが起こりました。
 
 
このとき秀吉は柴田勝家が擁する織田信孝の対抗馬として織田信雄を織田家の代表として立てたのです。さすがに三法師は幼すぎたので。
 
 
この「賤ケ岳の戦い」で、羽柴秀吉は柴田勝家を破り、信雄は岐阜にいた信孝を攻め切腹に追い込みました。
 
 
このとき織田信孝が詠んだ「辞世の句」には、秀吉への恨みが込められています。
 
 
勝ったのは良かったものの、その後、秀吉と折り合いが悪くなり、なぜか徳川家康に近づいて「小牧・長久手の戦い」では家康側についていました。
 
 
でも、家康が不利とみるやいなや、信雄はなんと突然、家康に無断で秀吉と単独講和を結んでしまったのでした。ひどいです。
 
 
信雄が和睦してしまったことで大義名分を失った家康は、仕方なく秀吉に従うことになりました。いい加減、どっちからも恨まれていいようなもんだけど、小物すぎて相手にされていなかったのか・・・

 
 

関ケ原・大坂の陣でも右往左往

 

 
「関が原戦い」の際、織田信雄は大坂城にいて一応中立の立場でいたといわれます。でも、どっちにつこうかと様子見しているうちに、あっという間に合戦が終わったというのが真実かもしれません。
 
 
この戦いの後、信雄は「改易」され、豊臣家に出仕しました。
 
 
信雄は淀殿と親戚(従兄)だったことから、大阪天満のお屋敷暮らしができたようです。織田の血筋ってだけでアホでもそれなりの待遇なんでしょうね。
 
 
1614年、「大坂冬の陣」の際には、戦の直前に徳川側に寝返るというスゴイ技を見せ、家康を喜ばせました。
 
 
そして、翌年の「大坂夏の陣」の後には、晴れて「大名」復帰を果たしたのです。
 
 
これだけ一貫性のないわけのわからん行動をしながら、ちゃっかり大名復帰しているあたり「本当は大物なのかもしれん」と思えたりして・・・
 
 
でも、昔もこういう人、いましたね。「応仁の乱」のときの将軍、決断力がまるでなく無駄に周りをほんろうした無能な将軍、でも、その人は「東山文化」という今の日本文化の基礎を築いた才能ある文化人でした。
 
 
こういうタイプの人はリーダーに向いてないのですよ。
 
 
織田信雄もまさしくこのタイプです。
 
 
太平の世の大名になってから、織田信雄は結構よいことをしています。

 
 

文化人として悠々自適の隠居生活

 

 
「大坂の陣」が終ると、織田信雄はようやくゆっくり自分らしい暮らしができるようになりました。
 
 
意外にも、彼は文化・芸術面では優れた才能を発揮し、領地に風雅な「楽山園」という庭園を造っています。この庭園は、現在「国指定名勝」に指定されている名園です。
 
 
また、彼は領地内で養蚕などの産業育成にも力を注ぎました。
 
 
このように、信雄は文化・芸術・産業保護はしっかりできる人だったんです。
 
 
その後、四男の信良に上野小幡藩2万石を分知して、京都に屋敷をかまえ隠居生活に入りました。
 
 
ゆったり茶道や鷹狩りなどをする優雅な隠居生活を送りながら、1628年には、3代将軍・家光から江戸城の「茶会」に招待されています。
 
 
そして、織田信長の次男・織田信雄は、1630年、京都北野の邸で死去しました。享年73歳。

 
 

織田信雄の子孫はいまだ健在!

 

 
織田信雄の子孫は、なんと現存しています。
 
 
フィギアスケート選手の織田信成さんは、この織田信雄の子孫なのでした。
 
 
なんか親しみが湧きませんか?
 
 
織田信成さん、一時期、うちの最寄り駅の周辺でよく目撃されていましたよ。(関大アイスアリーナのある駅なので)
 
 
もしかして、信雄もなんだか憎めない人だったのかもしれませんね。
 
 
あれだけ容赦ない戦国の世を、あいつはアホだからと思われて渡り切り天寿を全うしているのですから、ある意味優れた人だったのかもしれません・きちんと子孫も残していますしね。
 
 
歴史ドラマなんかでは、たいていバカ殿キャラになってますけど・・・
 
 
うん、あまり嫌いじゃないです、こういう人。

 
 
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