この記事を読むのに必要な時間は約 12 分です。


 
こんにちは。
 
 
江戸時代には、たまーに名君とよばれる人物が登場します。
 
 
今回ご紹介するのは、なぜか知名度は低いのですが、この時代の徳川家に生まれたのが奇跡かというほどの日本史上屈指の名君なのです!
 
 
彼がいたから徳川政権が260年以上も続いたといわれるほど、政権の基礎固めの時期に貢献した清廉潔白な藩主でした。
 
 
その人は将軍ではありません。名前は保科正之(ほしなまさゆき)
「え? 誰?」といわれそうですけど・・・
 
 
徳川3代将軍家光に信頼され、まだ若い4代将軍家綱の後見人として江戸の改革をし、会津藩主として藩政も整えた人なのです。
 
 
つまり、中央政府の重役と東北の知事さんを兼ねていた人です。
そんな彼は、なかなかドラマチックな出生の人なのでした。

 
 

スポンサーリンク

将軍の「隠し子」だった保科正之

 

 
保科正之は、第2代将軍・徳川秀忠の息子として江戸で誕生しました。
 
 
将軍様の子でしたが、母親は正室でも側室でもありません。保科正之の実母は、秀忠の乳母に仕えていた「静」という身分の低い女性だったのです。
 
 
そして、秀忠の正室は「浅井三姉妹」の末娘「お江」でした。姉は、豊臣秀吉の側室「淀殿」と京極家に嫁いだ「お初」です。
 
 
「お江」はとても嫉妬深く気の強い女性で秀忠は恐妻家だったため、この正室に気兼ねして側室を持ちませんでした。
 
 
でも、こっそり愛人作って子供も作ってしまったんですねー。
 
 
でも、もしこのことがお江に知られたら、子供に危害を加えられるかもしれない、そう思った秀忠は「静」の産んだ息子をひっそり隠して育てることにしたのです。
 
 
子供は松平家の一字を取って「幸松(こうまつ)」と名付けられ、身元を明かさない武田信玄の次女・見性院(けんしょういん)の元で養育されることになりました。
 
 
幸松の存在を知っていたのは、見性院の他には秀忠のごくごく側近の数名だけでした。
 
 
でも、実はその後、子供の存在が「お江」に知られてしまい、引き渡すよう命じられたんですよ。でも、さすが武田信玄の娘、見性院は「幸松は私の子だ!」と言い切って彼を守り抜いたのでした。「お江」怖すぎ・・・
 
 
その後、見性院の縁で幸松は旧武田氏家臣の保科正光(ほしなまさみつ)の養子となり、保科正之と名乗るようになりました。
 
 
徳川家康の直系の孫でありながら、彼が「保科」の「姓」なのはそういう理由なのでした。

 
 

偶然彼が弟と知った家光はどうした?

 

 
成長した幸松は、1629年には、兄の徳川忠長(家光の弟)と初対面し、気に入られて祖父(徳川家康)の遺品をもらったりしています。
 
 
1631年には、養父の保科正光が死去し、彼が保科家の家督を相続しました。(21歳)
 
 
こうして幸松は3万石の高遠藩主となり「諱(いみな)」を保科正之と改めたのです。
 
 
1632年、父の徳川秀忠が息子と認めてくれないまま亡くなり、長兄の徳川家光が3代将軍になりました。
 
 
そんなある日、徳川家光が身分を隠して鷹狩りに行き、目黒の成就院で休憩した際、たまたまそこの僧侶から「肥後守殿(保科正之)は、今の将軍家の弟君です」と聞かされたのです。
 
 
家光はびっくりです! それからこっそり保科正之の人柄を観察していたのですが、あくまで家臣として仕えようとする彼の謙虚な態度に感心し、だんだん信用するようになりました。
 
 
そうして、家光の彼に対する信頼は揺るぎないものとなっていったのです。
 
 
1636年には出羽・山形20万石を与えられ、1643年には会津藩23万石に加増されました。
 
 
1651年、家光が亡くなる間際に彼を呼び、4代将軍・家綱(11歳)の後見を任せたいと言いました。
 
 
晩年になると、彼は結核を患い目を悪くして失明してしまったそうです。1669年には嫡男の保科正経に家督を譲り隠居しました。
 
 
その3年後、保科正之は江戸三田の会津藩邸で病死しました。享年63歳。

 

 

スポンサーリンク

「明暦の大火」で有能さを発揮

 

 
保科正之の名君たるエピソードをお伝えします。
 
 
1657年、「明暦の大火(めいれきのたいか)」と呼ばれる、史上最大の江戸の火災が起こりました。
 
 
ある寺で3人の女が振袖を焼いたのが出火元といわれますが、この大火災で江戸の大半が焼失してしまったのです。
 
 
火の手は江戸城にまでおよび、天守が焼失してしまいました。
 
 
重役たちがなんとか将軍・家綱を城外へ逃がさなければと言う中、保科正之はあくまで将軍は江戸城にとどまるべきと考え、江戸城内の避難場所を提案したのです。
 
 
将軍が江戸を捨てて逃げたら、民衆は「もう江戸、オワタ?」とパニックをおこしかねません。少しでも、みんなが安心して行動できるようにと考えての決断でした。
 
 
そして、火災の後、保科正之は城の天守再建に待ったをかけます。
 
 
天守は武士の象徴のようなものなので、本来はなにより優先して再建したいものだったのですが、
 
 
「あんなものはただの飾りだ。今は江戸の町の復興を最優先すべきである」
 
 
そうして、天守再建にかかる費用は江戸の町の復興費にあてられたのです。
 
 
天守はなくなりましたが、おかげで江戸の町は復興し、より安全な町へと変わっていきました。
 
 
その後も、彼は玉川上水を開削して飲用水が安定供給できるように尽力するなど、江戸庶民にとって住みよい町づくりに貢献したのです。
 
 

会津で日本初の年金制度を導入

 

 
保科正之は、会津藩主としても、いろいろな改革を行っています。
 
 
会津では90歳以上の老人に対する年金制度がありました。これは、彼が考案したものです。
 
 
また、兄の家光との信頼関係から、隠居する前の年(1668年)に「会津家訓十五箇条」を定めました。
 
 
その第一条は「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、それを裏切るような藩主があれば家臣は従ってはいけない」というものでした。
 
 
代々会津藩主は、みなこの家訓を忠実に守りました。
 
 
彼の生真面目マインドは完璧に受け継がれ、会津藩9代藩主・松平容保は最後まで徳川幕府を擁護し続けて、薩摩や長州と戦い続けることになったのです。
 
 
幕末の因縁にまで発展しているところが歴史ってすごいなと思いますね。

 
 

保科正之の子孫は?

 

 
祖父が徳川家康、父が徳川秀忠、兄が徳川家光という徳川将軍直系の濃い血筋を持つ保科正之ですが、子孫は今に続いているのでしょうか?
 
 
正之の長男は早くに亡くなり、次男の正頼(まさより)も18歳で病死してしまいました。
 
 
だから、2代目は四男の正経(まさつね)が継ぎましたが、男子を授かることはなく、六男の正容(まさかた)が養嗣子となって3代目を継いだのです。
 
 
正之は養父だった保科正光(ほしなまさみつ)に恩義を感じ、幕府から「松平姓」を勧められても辞退しました。
 
 
でも、3代正容から「松平姓」を名乗るようになり、「三つ葉葵御紋」を家紋にして会津藩は御親藩(御一門)になったのです。
 
 
保科正之の直系は早世した人が多く、直系血族は7代の容衆(かたひろ)で絶えてしまいました。
 
 
8代藩主の容敬(かたたか)は、親戚筋からの養子なのです。(水戸家出身の美濃・高須藩主・松平義和の息子)
 
 
幕末の「戊辰戦争」のときの会津9代藩主・容保(かたもり)は容敬の甥で、同じ高須藩からの養子(父が容敬の兄・松平義建)でした。
 
 
明治以降は、容保からの子孫が続き、現在、会津松平家14代当主・松平保久さんがいらっしゃいます。
 
 
まとめると、保科正之の直系血族は7代目で途絶えたけれど、親戚から養子を迎えて会津藩主として家系は今も続いているのでした。

 
 

保科正之の簡単年表

 

 
・1611年(1歳)
2代将軍・徳川秀忠の庶子として誕生。
 
・1617年(7歳)
高遠藩主・保科正光の養子に。
 
・1631年(21歳)
養父・保科正光が死去。
→高遠藩主に就任。
 
・1636年(26歳)
山形藩20万石の藩主に。
 
・1643年(33歳)
会津藩23万石の藩主に。
 
・1651年(41歳)
3代将軍・家光が病没。
→遺言により4代将軍・家綱の後見人になる。
 
・1657年(47歳)
「明暦の大火」が起こる。
→見事な手腕で江戸の町を再建。
 
・1669年(59歳)
息子・正経に家督を譲り隠居。
 
・1673年(63歳)
江戸の三田藩邸で病没。

 
 
 
【関連記事】
   ↓




 
 
 

スポンサーリンク