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2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主役の1人、金栗四三(かなぐりしぞう)について!
 
 
オリンピック前夜の年ということで、大河ドラマは前の「東京オリンピック」で活躍した人をテーマにしています。
 
 
個人的には「え? だれ? 知らん。」という感じでしたが、一般的にも知名度はかなり低い人と思われます。
 
 
でも、彼はマラソン・駅伝・女子のスポーツ奨励など日本のスポーツ振興に大変尽力した人なのです。知れば知るほどさすがだなと思える努力の人ですよ。
 
 
今回は金栗四三の生い立ちやオリンピックとの関係、子孫についてご紹介します。

 
 

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金栗四三は「日本のマラソンの父」

 

【https://www.city.tamana.lg.jpより引用】

 
まずは、金栗四三(かなぐりしぞう)がどんな偉業を残した人なのか、その疑問にお答えします。
 
 
彼は日本初のオリンピック選手としてマラソン競技て参加した人です。そこから「日本のマラソンの父」と呼ばれるようになりました。
 
 
また、毎年行われる箱根駅伝の創設者でもある人なのです。
 
 
私はスポーツ全般、まったく興味がないので知らなかったのですが、箱根駅伝の最優秀選手に授けられる杯は「金栗四三杯」という名なのだそうです。
 
 
マラソン、駅伝の他にも、日本陸上競技連盟の顧問を務めて、多くのマラソンのトレーニング方法を開発するなど、日本のスポーツ界に大きな貢献をしていますよ。
 
 
また、女子校の先生をしていたこともあり、女子スポーツの奨励にも尽力しています。

 
 

金栗四三の簡単な生い立ち

 

【https://www.city.tamana.lg.jpより引用】

 
金栗四三は1891(明治24)年8月20日、 熊本県玉名郡で生まれました。
 
 
生家は酒造業を営んでいて、四三は8人兄弟の7番目でした。
 
 
四三という変わった名前をしていますが、その由来は父親が43歳の時に生まれた子だったからだとか・・・
 
 
「他の兄弟も数字の名前なのか?」と思ったらそうでもないみたい・・・。変ですね。
 
 
四三は10歳になると玉名北高等小学校に入学しました。この小学校は家からすごく遠い場所にあったので、彼は往復12㎞の距離を、毎日、上級生や友達と走って通学していたそうです。この頃から、長距離走やってたんですね。
 
 
このとき、四三は「2回吸って2回吐く」呼吸で走ると、苦しくないということに気づきました!
 
 
成長した彼は、海軍兵学校を受験しましたが、角膜炎のせいで不合格になり、滑り止めで受けた東京高等師範学校(今の筑波大学)に進学しました。
 
 
ここで彼は運命の師と出会います。
 
 
その人が嘉納治五郎。東京高等師範学校の校長先生であり、講道館柔道の創始者でもあった人でした。
 
 
1911(明治44)年、金栗四三は東京高等師範学校の本科に進み、徒歩部に入りました。
 
 
努力家の四三は誰よりもたくさん練習に励んで、徒歩部でトップの長距離ランナーになりました。
 
 
その年、日本がオリンピック初参加に向けて国内予選会を開くことが決まり、四三も参加することに決まったのです!
 
 
当日は悪天候で、とても寒い日でした。
 
 
でも、四三はなんと「黒足袋」をはいて走りきり、見事優勝したのでした!
 
 
それも、当時の世界記録を27分も縮める「2時間32分45秒」という素晴らしい結果でした。

 
 

オリンピックへの参加

 

【https://www.city.tamana.lg.jpより引用】

 
第5回ストックホルム大会から第8回パリ大会までの4回にわたるオリンピックと四三についてまとめます。
 
 
彼はオリンピックに自分が参加する事だけでなく、日本にオリンピックを招致しようと努力した人でもありました。

 
 

(1)第5回ストックホルム大会※棄権

 
 
1912(明治45)年、日本が初参加する第5回ストックホルム大会が開かれました。
 
 
ところが、マラソン競技の当日は前代未聞の暑さで、なんと選手68人中34人が棄権するという大変な状況だったのです。
 
 
四三も途中で熱中症になりふらふらになって倒れてしまい、近くの民家・ペトレ家で介抱されました。
 
 
ペトレ家の人たちは、他にも何人かの選手を介抱したそうです。
 
 
そして、四三が目を覚ましたのは、なんとその翌日でした。
 
 
関係者は何時間たっても四三が大会会場に戻って来なかったため、騒ぎになりました。彼は「消えた日本人」として噂になり当地の新聞にも載ったそうですよ。
 
 
残念な結果に終わってしまいました。
 
 
その後、金栗四三は1914年に東京高等師範を卒業して研究科へ進みました。それから、東京府女子師範学校などで先生をしながら、スポーツの指導に力を注いだのでした。

 
 

(2)第6回ベルリン大会※中止

 

 
金栗四三はストックホルム大会での雪辱を晴らしたいと思い、次の第6回ベルリン大会に向けて努力していました。彼は努力の人です。
 
 
でも、残念なことに、第一次世界大戦のため大会自体が中止になってしまったのでした。

 
 

(3)第7回アントワープ大会※16位

 
 
その4年後、四三は第7回アントワープ大会にも出場しましたが、メダルには届かず16位という結果に終わりました。
 
 
ストックホルムから8年経っていますが、不屈の精神ですね。
 
 
でも、まだまだやる気満々です!

 
 

(4)第8回パリ大会※棄権

 

 
それからまたまた4年後、四三は33歳になっていましたが、第8回パリ大会に出場しました。
 
 
でも、途中で意識不明となり棄権に終わったのでした。
 
 
1945(昭和20)年、金栗四三は熊本県に帰りました。
 
 
そして、熊本県体育協会の設立に力を注いで、翌年、初代会長に就任しました。
 
 
1948年には熊本県の初代教育委員長に就任し、さらに、紫綬褒章勲四等旭日小綬章を受章しました。

 
 

スウェーデンオリンピック66周年記念祝賀行事に招待

 

【https://www.city.tamana.lg.jpより引用】

 
1967年、金栗四三はスウェーデンオリンピック委員会から、第5回オリンピックの55周年記念祝賀行事に招待されました。
 
 
彼は大観衆に見守られながら、ストックホルムスタジアムを10mほど走って、用意されていたゴールテープを切りました。75歳のときです。
 
 
会場ではゴールの瞬間に、場内アナウンスが流れました。

 
 

「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン! 記録は通算54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします。」

 
 
なかなか粋な計らいですね。
 
 

東京オリンピック招致のための活動

 

【https://www.city.tamana.lg.jpより引用】

 
金栗四三は自身がオリンピックに参加する事だけでなく、日本でオリンピックを開催したいという意欲を持ち貢献した人でもありました。
 
 
1936年には東京オリンピック招致のため努力しましたが、残念なことに日中戦争の影響で大会は開催されなかったのです。
 
 
東京オリンピックの開催は、その28年後、「いだてん」に登場する水泳指導者・田畑政治たちの努力を待たなければいけませんでした。
 
 
金栗四三は1983年、92歳で亡くなりましたが、彼の功績をたたえて、箱根駅伝では2004年から最優秀選手に「金栗四三杯」が贈られるようになりました。
 
 
金栗四三が日本のマラソン界、駅伝界に与えた影響はとても大きかったと分かります。そして、穏やかそうなおじいちゃんになっていて素敵です。
 
 
「体力・気力・努力」
 
 
これは彼の名言として知られる言葉です。まさにこの言葉どおりの生き様でした。
 
 
玉名市上小田のお墓のそばに建てられた記念碑には、この名言の文字が刻まれています。

 
 

金栗四三の子孫は現存している?

 

 
金栗四三は22歳のときに結婚して、6人の子供と10人の孫に恵まれました。
 
 
今はひ孫も複数いますが、そのうちの1人に四三のようなスポーツ選手・蔵土義明さんがいます。
 
 
蔵土義明さんは、2012年にストックホルム大会開催100週年式典に招かれて、四三と同じ「822番」のゼッケンをつけ、四三が走ったマラソンコースを完走しました。
 
 
また、金栗四三の功績をたたえた顕彰銘板の除幕式に、彼が参加しています。
 
 
彼はまた、ストックホルム大会で倒れた曾祖父・四三を介抱してくれたペトレ家を訪ねて、お礼をしたそうですよ。

 
 

金栗四三の簡単年表

 

 
・1891年(0歳)
熊本県で誕生。
8人兄弟の7番目。
 
・1901年(10歳)
玉名北高等小学校入学。
往復12キロを走って通学。
 
・1910年(19歳)
東京高等師範学校(筑波大学)に入学。
学長・嘉納治五郎と出会う。
 
・1911年(20歳)
翌年開催予定のストックホルム五輪のマラソン予選に出場。
当時の世界記録を樹立!
日本初のオリンピック選手に決定。
 
・1912年(21歳)
ストックホルム五輪に出場するも、途中で日射病で意識を失う。
競技を断念しやむを得ず日本へ帰国する。
 
・1914年(22歳)
春野スヤと結婚。
 
・1916年(24歳)
神奈川師範学校の教師に。
担当科目は地理。
 
・1920年(29歳)
アントワープ五輪出場。
結果は16位。
第一回箱根駅伝開催。
 
・1921年(30歳)
東京女子師範学校の教師に。
女子のスポーツ教育に尽力。
 
・1924年(33歳)
パリ五輪に出場
→途中棄権。
 
・1936年(45歳)
日本初のオリンピック誘致のために尽力するも果たせず。
 
・1946年(55歳)
熊本県体育会を創設。
初代会長に就任。
 
・1967年(76歳)
ストックホルム五輪開催55周年記念式典に招待される。
 
・1983年(92歳)
死没。
 
・2004年
箱根駅伝の最優秀選手に「金栗四三杯」が授けられる。

 
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