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今回は、平安後期に「院政」という政治を始めた白河上皇(法皇)についてお伝えします。
 
 
平安中期は摂関政治の時代でしたが、摂関家(藤原北家)の力が弱まり、天皇家に権力が戻っていきました。
 
 
院政は、天皇が息子などに譲位して上皇となり、そのまま上皇として政治権力を握り続ける体制です。
 
 
その始まりは、白河天皇が上皇となった1086年からで、白河上皇に続き鳥羽上皇、後白河上皇の3代にわたって約100年間行なわれました。
 
 
それでは、白河法皇がどのようにして院政を始めたのかみていきましょう。

 
 

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摂関政治の終焉

 

 
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだのは、娘3人を天皇の后とし、孫を天皇にして権力をほしいままにした藤原道長。
 
 
天皇の外戚として藤原北家が権勢をほしいままにしていたのもつかの間、その息子藤原頼道は娘に恵まれず、摂関政治を引き継ぐことができませんでした。
 
 
そうして、都の政治の中枢は、藤原北家から天皇家に戻っていくことになります。
 
 
その頃、即位した第71代天皇の後三条天皇は、母が藤原氏ではなく内親王(天皇家)の女性でした。
 
 
それまでの天皇を整理すると、
 
 
第68代 後一条天皇
第69代 後朱雀天皇
第70代 後冷泉天皇

 
 
この3名はすべて藤原道長の「孫」です。つまり、母親が道長の娘。
 
 
ここで藤原の外戚を断ち切った後三条天皇の存在は大きいです。
 
 
彼は藤原氏の権力を削ぐために、その経済基盤だった荘園を整理する「延久の荘園整理令」を出し、天皇への権力集中と国家財政の強化をはかりました。
 
 
そして、後三条天皇の次に即位したのが、その息子の白河天皇(第72代)です。
 
 
この白河天皇こそが、のちに上皇として「院政」という政治システムを作り上げた人物なのでした。
 
 
でも、実は白河天皇、母親は藤原の娘なのです。
 
 
1072年、白河天皇は18歳で天皇に即位しました。しかし、そのとき父の後三条天皇の命で、白河天皇の異母弟でわずか2歳の実仁親王が皇太弟に指名されることになりました。
 
 
実は、後三条天皇が本当に跡継ぎにしたかったのは、実仁親王なのです。そこは藤原嫌いの後三条天皇、せっかく藤原氏の力を削ごうとしているのに、白河天皇の母は藤原の娘なのです。気持ちはわからないでもないですね。
ちなみに、実仁親王の母は、源基子という皇室の血を引く源氏の娘でした。

 
 

白河天皇・弟でなく息子に譲位する

 

 
せっかく天皇になったのに、本当は2歳の弟に継がせたかったなんて、白河天皇としては当然面白くありません。自分が「中継ぎ」だといわれたようなものですからね。
 
 
ところが、都合のよいことに実仁親王は、15歳の若さで病気(疱瘡?)で亡くなりました。後三条天皇に指名された後継者が死んでしまったわけですが、後三条天皇は実仁親王が天皇になったらその弟の輔仁親王を皇太弟にしろという遺言まで残していました。
 
 
父である後三条天皇の遺言に従うならば、白河天皇の次は輔仁親王になるはず。
 
 
しかし、彼はその遺言を無視します。
 
 
そして、実仁親王が亡くなった翌年、1086年にまだ8歳の息子に譲位し自分は白河上皇になったのでした。この年が「院政」のはじまりとされています。
 
 
このとき白河上皇はまだ34歳、即位した息子の堀川天皇は8歳なので、政治はこれまでどおり白河天皇と藤原氏が協力し合って行うことになりました。(堀川天皇の母も藤原氏、祖父は藤原師実です)

 
 

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白河上皇(法皇)の院政スタート

 

 
「院政」が始まったとされるこの時期は、実は堀川天皇の摂政・藤原師実と白河法皇は、うまく協力ながら統治していました。そうするうちに高齢になった師実は、摂関職を能力のある息子・師通(もろみち)に譲ることになります。
 
 
そして若き堀川天皇と関白・藤原師通がタッグを組むことになり、白河上皇はだんだん口出ししにくい立場になりました。また、このころ白河上皇は、かわいがっていた娘の媞子内親王が亡くなって失望し、出家して法皇になりました。少し政治の世界から遠ざかっていたのです。
 
 
しかし、1099年、藤原師通が働き盛りの若さで急死してしまったことで、事態が大きく変わります。
 
 
堀川天皇は有能な天皇だったようですが、なんといってもまだ20歳そこそこです。急死した師通の後を継いだのは経験不足のこれまた20歳そこそこの若き息子・藤原忠実でした。
 
 
天皇も関白も若造になってしまったわけですから、難しい問題には対処しきれない局面が出てきます。
 
 
こうして、もっとやり手の政治手腕を持った人物が求められるようになり、白河法皇がカムバックすることになったのです。
 
 
1107年、今度はもともとひ弱だった堀川天皇が、28歳の若さで亡くなりました。
 
 
次の天皇は堀川天皇のわずか5歳の息子・鳥羽天皇です。こうして幼い天皇が続くことになり、白河法皇の院政が本格化していくことになったのです。

 
 

院政を強固にする組織づくり

 

 
もともと幼い天皇が続くという運命的な流れがあったにせよ、院政を続けるにつれ白河上皇は自分に権力が集中するようにいろいろ組織をするようになりました。
 
 
まずは、天皇の住まう御所とは別に、上皇の住居であり院政を営む場所でもある「院御所(いんのごしょ)」または「後院(ごいん)」を設け、もう一つの御所のようにそこに自分の直属の配下を置きました。
 
 
それらの配下は、経済的に貢献してくれる中流貴族、守りを固める武士や寵童(院政時代盛んだった男色の相手)でした。

 
 

院の守り「北面の武士」を設置

 

 
白河上皇は院御所を警護する機関を作りました。それは院御所の北面に配置されたので「北面の武士」と呼ばれます。
 
 
このころ、南都の寺社(東大寺や興福寺)、比叡山延暦寺などの僧兵たちが、朝廷や院に対して武力で自分たちの要求を突きつける「強訴(ごうそ)」が横行していました。そのため、院御所にも守りが必要だったのです。
 
 
「北面の武士」は武芸にすぐれた者が任じられる名誉職でした。そして、上皇直属の機関として上皇の大きな軍事的基盤となっていったのです。
 
 
彼らの中には、受領(ずりょう)や検非違使(けびいし)に任じられる者もいました。
 
 
のちにこの「北面の武士」の中から、有力な武士が台頭してくることになります。平清盛もその一人です。

 
 

3代の天皇の上に君臨した「治天の君」

 

 
政権を握った実質的な皇室の当主を「治天の君」と呼びます。白河上皇(法皇)は「治天の君」として、長く天皇の上に君臨することになりました。
 
 
息子の堀川天皇
孫の鳥羽天皇
曾孫の崇徳天皇

 
 
この3代にわたり亡くなるまでの43年間、院政を続けたのです。
 
 
白河法皇は、1129年に77歳で崩御しました。その後、院政を引き継いだのが孫の鳥羽天皇です。
 
 
鳥羽天皇と息子の崇徳天皇の間で、次の天皇への引継ぎに禍根を残し、それが源平の合戦につながる「保元・平治の乱」のきっかけの一つになります。
 
 
武士の登場を待つ時代へと変わろうとしていました。

 
 

まとめ


★白河法皇は1086年から約100年にわたる院政を始めた
 
 
★堀川天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の時代に「治天の君」として君臨した
 
 
★院御所で政治を行った
 
 
★院直属の「北面の武士」を設置した
 
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