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こんにちは。
 
後鳥羽上皇は、文武両道のスーパー上皇でした。
 
 
知力・体力・精神力ともにそろった天皇だったからこそ、もう一度武家から公家の元に政権を取り戻そうと試みたのです。
 
 
そうして、承久の乱をおこし、最後は配流される人生を送りました。
 
 
この時代は、死刑が廃止されていたので、天皇配流といえば死罪と同じぐらいとんでもなく重い罪だったのです。
 
 
今回は、魅力あふれる後鳥羽上皇について、お伝えします。

 
 

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◆後鳥羽上皇はどんな人?簡単に説明

 

 
後鳥羽上皇は、1180年に高倉天皇の第4皇子として生まれました。
 
 
1180年といえば、源平合戦の「治承・寿永の乱」が起こった年です。
 
 
それから5年後の1185年「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡、安徳天皇が入水して果てました。
 
 
後鳥羽上皇は、安徳天皇の次に4歳で即位することとなったのです。
 
 
でも、平清盛の孫・安徳天皇が入水したとき、「三種の神器」も共に水の中に沈みました。
 
 
「三種の神器」は天皇の必須アイテムなので、すごーく重要なものなのですが、異例というか黙認されたというか、うやむやのままの即位となったのでした。
 
 
その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、政治の中心は鎌倉に移り、実権は武家(源氏)が握ることとなりました。
 
 
でも、それまでの日本の中心は京都とその周辺・近畿にありました。鎌倉なんて、当時の日本人(特権階級)からみると、へき地だったのです。
 
 
源頼朝は、公家勢力の排除を目的にそんな辺境にそんな辺境に幕府を作ったのですが、京都(関西)には、まだまだ多くの公家の荘園があり、京都と鎌倉が共に力を持つ複雑な状況になっていたのです。
 
 
成長した後鳥羽上皇は、弓矢や乗馬の達人で、学問・芸術、特に和歌は天才的という優れた人でした。
 
 
やる気も満々だったので、彼は機械があれば源氏(武家)から政権を奪い返そうとひそかに企んでいたのです。
 
 
熱い人だったらしく、勅撰和歌集「新古今和歌集」を作るとき、和歌の選び方をめぐって撰者の藤原定家(小倉百人一首を作った人・定家も熱い人だった)と本気で言い争い絶交しています。
 
 
彼は、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝と和歌と蹴鞠をとおして仲がよかったのです。実朝は武家の人間なのですが、公家っぽい人だったので、実朝ならなんとかなるかなと始めは思っていたのでした。
 
 
でも、1219年、源実朝は暗殺されてしまいます。
 
 
その後、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府から政権を取り戻そうと、1221年に「承久の乱」を起こしました。
 
 
この戦いは、北条政子の元に集まった武士に大敗し、最後は島流しにされてしまったのです。

 
 

◆後鳥羽上皇が流されたのは「隠岐の島」だった

 

 
承久の乱は、鎌倉幕府の圧勝で幕を閉じ、後鳥羽上皇は大きな私有地(荘園)を没収されて、配流されることに決まりました。
 
 
島送りになった先は、島根半島の北方に位置する「隠岐の島」でした。
 
 
後鳥羽上皇は、それから亡くなるまでの約20年間、この隠岐の島の源福寺で過ごしました。
 
 
天皇が配流になると、以前とは比べ物にならない粗末な家屋で常に警護付きで暮らすのですが、地元の人からは「尊いお方」と尊重されたそうですよ。
 
 
彼は、ここでも和歌を詠んだりしながら暮らしていたのでしょう。
 
 
勝気な人らしい歌を残しています。
 
 
「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」
 
 
(訳)私こそが、新しくやって来たこの島の長だ。隠岐の海の荒い波風よ、これからは心して穏やかに吹きなさい」
 
 
負け惜しみかもしれませんが、なかなかジャイアンな歌でした。( ̄▽ ̄)

 

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◆「百人一首」に選んだ定家の想い

 

 
「新古今和歌集」に選ぶ和歌のことで、後鳥羽上皇とケンカ別れした藤原定家は、それでも後鳥羽上皇の和歌の才を高く評価していました。
 
 
そして、自分で選んだ「百人一首」に、後鳥羽上皇とその息子・順徳院の和歌を選んだのです。
 
 
それも「99番」と「100番」、大取です。
 
 
配流された者の和歌を取り上げるのはやはり勇気のいる事、定家なりに後鳥羽上皇の和歌の才能と和歌への想いをリスペクトしていたのでしょう。

 
 

「百人一首」の後鳥羽院の和歌

 
 
「小倉百人一首99番」に選ばれた和歌は、後鳥羽上皇が承久の乱を起こす前、33歳のときに詠んだ和歌です。
 
 
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」
 
 
「(訳)あるときは人を愛おしく思う。そして、またあるときは人を憎く恨めしく思うよ。つまらない世の中だと思いを巡らす私にとっては。」

 
 

「百人一首」順徳院の和歌

 
 
「小倉百人一首100番」の順徳院は、後鳥羽上皇の第3皇子で、藤原定家に和歌を習っていました。定家の息子と同年代で、蹴鞠仲間だったそうです。
 
 
父と共に承久の乱を企て敗北、佐渡に配流されました。
 
 
この和歌を詠んだとき、順徳院は20歳で、承久の乱の前でした。
 
 
「百敷(ももしき)や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
 
 
「(訳)宮中の古くなった軒端に生えている「しのぶ草」を見ていると、いくらしのんでも忍びきれないのだ。とうに過ぎ去ってしまった昔の、あの輝かしい御代のことが。」

 
 

◆後鳥羽上皇のまとめ


後鳥羽上皇は4歳で天皇になり19歳で息子に皇位を譲って上皇になり「院政」を敷こうとしました。
 
 
歴史がいったん動き出してしまったら、元に戻そうとする勢力は敗北するといいます。
 
 
承久の乱は、後鳥羽上皇がまれにみるハイスペックな上皇だから起こったともいわれますよ。
 
 
・「三種の神器」を持たずに4歳で即位
 
・文武両道の超エリート上皇だった
 
・武家(源氏)から政権を取り戻そうとして承久の乱を起こし敗北
 
・隠岐の島に配流された

 
 

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