この記事を読むのに必要な時間は約 10 分です。


 
西は朝廷、東は武家という二重政権下にあった鎌倉時代初頭の日本に、文武両道の大変優れた天皇が誕生しました。
 
 
それが今回ご紹介する後鳥羽上皇です。
 
 
知力・体力・気力ともにそろった優秀な天皇だからこそ、もう一度「朝廷」に政権を戻そうと考え実行したのです。
 
 
そうして「承久の乱」を起こし、最後は配流されてしまいました。
 
 
天皇や上皇に死刑は適用されないので、上皇の「配流」といえば死罪と同じぐらいとても重い罪でした。

 
 

スポンサーリンク

後鳥羽上皇の生い立ち

 

 
後鳥羽上皇は、1180年に高倉天皇の第4皇子として生まれました。
 
 
1180年は源平合戦の「治承・寿永の乱」が起こった年です。
 
 
それから5年後の1185年には、「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡し兄である安徳天皇が入水して亡くなりました。
 
 
後鳥羽上皇はその安徳天皇が亡くなった後、4歳で即位したのです。
 
 
平清盛の孫でもある安徳天皇が壇ノ浦で入水したとき、「三種の神器」も一緒に水の中に沈みました。
 
 
もちろん「三種の神器」は天皇の必須アイテムで、なくてはならないものですから、多くの人を動員して徹底的に海の底を探らせたのですが、「玉・鏡・刀」の内の刀「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」だけがどうしても見つからなかったのです。
 
 
神器がそろわなけれは正当な天皇とはいえないはずですが、事情が事情なので黙認され、うやむやのまま後鳥羽天皇の即位となったのでした。
 
 
幼い天皇に代わって、朝廷は後白河法皇が「院政」を行っていました。

 
 

朝廷に政治を取り戻そうと動く

 

 
1192年、後白河法皇が亡くなると、朝廷の実権は摂政の九条兼実(くじょうかねざね)が握りました。
 
 
そしてその年、九条兼実の後押しで、後鳥羽天皇は源頼朝を征夷大将軍に任命し鎌倉幕府を正式に認めました
 
 
しかし、当時の日本は「西は朝廷 東は武家」という二重政権になっていました。
 
 
古代から日本の中心は京とその周辺の近畿地方です。鎌倉など当時の人(特権階級)にとっては、東のへき地でした。
 
 
源頼朝は朝廷勢力の排除を狙ったためそのような辺境に幕府を作ったのですが、京都(関西)には、まだまだ多くの朝廷の荘園があり、京と鎌倉が共に力を持つ複雑な状況になっていたのです。

 
 

スポンサーリンク

「承久の乱」を起こす

 

 
成人した後鳥羽天皇は、弓矢や乗馬の達人で、学問、芸術、特に和歌は天才的といわれるほどの優れた人物でした。
 
 
また彼は野心家だったので、チャンスがあれば源氏(武家)から政権を奪い返そうとひそかに企んでいました。
 
 
1198年、後鳥羽天皇は19歳で息子の土御門天皇に譲位し、後鳥羽上皇となりました。
 
 
それから後、順徳天皇、仲恭天皇と3代の天皇の上で23年間にわたり「院政」を敷いたのでした。
 
 
勅撰和歌集の「新古今和歌集」を作るとき、和歌の選び方をめぐって撰者の藤原定家(小倉百人一首を作った人)と本気で言い争い絶交するほど何事にも熱く取り組む人でした。
 
 
彼は、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝とは和歌や蹴鞠をとおして付き合いがあり、朝廷に理解のある実朝ならば自分の思い通りに動かせると思っていたかもしれません。
 
 
しかし、1219年に源実朝は暗殺されてしまいました。
 
 
その後、後鳥羽上皇は鎌倉幕府から政権を取り戻そうとして、1221年に「承久の乱」を起こしました。
 
 
この戦いは北条政子の元に集まった武士に大敗し、武家政権の基盤を築くもとになりました。

 
 

隠岐の島へ配流

 

 
「承久の乱」は鎌倉幕府の圧勝で幕を閉じ、後鳥羽上皇は大きな私有地(荘園)を没収されて、配流されることに決まりました。
 
 
送られた先は、島根半島の北方に位置する「隠岐の島」でした。
 
 
後鳥羽上皇はそれから亡くなるまでの約20年間、この隠岐の島の源福寺で過ごしました。
 
 
天皇や上皇が配流されると、御所にいたころとは比べ物にならない粗末な家屋で常に警護付きで暮らすのですが、地元の人からは「尊いお方」と尊重されたそうです。
 
 
彼は、ここでも季節の移ろいを愛でながら和歌を詠んで暮らしていたのでしょう。
 
 
勝気な人らしい歌を残しています。
 
 
「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」
 
 
(訳)私こそが、新しくやって来たこの島の長だ。隠岐の海の荒い波風よ、これからは心して穏やかに吹きなさい」
 
 
負け惜しみかもしれませんが、なかなかしぶとくて素敵な人です。

 

 

「百人一首」に選んだ定家の想い

 

 
「新古今和歌集」で選ぶ和歌について後鳥羽上皇とケンカ別れした藤原定家は、後鳥羽上皇の和歌の才は高く評価していました。
 
 
彼は私選の「小倉百人一首」に、後鳥羽上皇とその息子・順徳院の和歌を選んでいます。
 
 
それも最後の2首「99番」と「100番」です。
 
 
配流された人の和歌を取り上げるのは罪人の味方と見られるので勇気のいる事ですが、定家なりに後鳥羽上皇の和歌の才能と和歌への想いを形の残したかったのでしょう。

 
 

「百人一首」の後鳥羽院の和歌

 
 
「小倉百人一首99番」の和歌は、後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こす前、33歳のときに詠んだ和歌です。
 
 
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」
 
 
「(訳)あるときは人を愛おしく思う。そして、またあるときは人を憎く恨めしく思うよ。つまらない世の中だと思いを巡らす私にとっては。」

 
 

「百人一首」順徳院の和歌

 
 
「小倉百人一首100番」の順徳院は、後鳥羽上皇の第3皇子で藤原定家に和歌を習っていました。定家の息子と同年代で、蹴鞠仲間だったそうです。
 
 
父と共に承久の乱を企て敗北し、佐渡に配流されました。
 
 
この和歌を詠んだとき、順徳院は20歳で「承久の乱」の前でした。
 
 
「百敷(ももしき)や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
 
 
「(訳)宮中の古くなった軒端に生えている「しのぶ草」を見ていると、いくらしのんでも忍びきれないのだ。とうに過ぎ去ってしまった昔の、あの輝かしい御代のことが。」

 
 

まとめ


後鳥羽上皇は4歳で天皇、19歳で息子に皇位を譲って上皇になり「院政」を敷こうとしました。
 
 
歴史がいったん動き出してしまったら、元に戻そうとする勢力は敗北するといいます。
 
 
承久の乱は、後鳥羽上皇がまれにみる優れた上皇だから起こったのかもしれません。
 
 
・「三種の神器」を持たずに4歳で即位
 
・文武両道の超エリート上皇だった
 
・武家(源氏)から政権を取り戻そうとして承久の乱を起こし敗北
 
・隠岐の島に配流された

 
 

【関連記事】
   ↓



 
 

スポンサーリンク