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日本には強い恨みを持って亡くなった人が怨霊になり、生前自分を苦しめた人々を祟り殺すという怨霊伝説があります。
 
 
中でも崇徳天皇は「日本史上最恐の怨霊」と恐れられていました。
 
 
天皇(上皇)でありながらなぜ怨霊・妖怪と呼ばれるようになってしまったのか、崇徳天皇の数奇な運命についてお伝えします。
 
 
崇徳上皇の死後の怨霊伝説はこちら。


 

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崇徳天皇の生い立ち

 

 
崇徳天皇は、1119年に鳥羽天皇藤原珠子(待賢門院)の第1皇子・顕仁(あきひと)親王として誕生しました。
 
 
しかし、顕仁(あきひと)親王は生まれたときから鳥羽天皇の子供ではないのではないかと噂されていました。
 
 
じゃあ誰の子なのかというと、鳥羽天皇の祖父で政治の実権を握っていた白河上皇の子と思われていたのです。
 
 
鳥羽天皇の后・璋子はもともと白河上皇の養女でお気に入りの女性でした。
 
 
鳥羽天皇は祖父の寵姫を后にあてがわれたのです。鳥羽天皇15歳、珠子17歳のときでした。しかし珠子は皇后になってからも方位除けと称しては実家に戻り、白河上皇も同じ時に彼女の実家に行っていて、そのことは朝廷中が知っていました。
 
 
鳥羽天皇もその噂を耳にしていたので、顕仁(あきひと)親王のことを「叔父子(おじご)」と呼んでいたそうです。息子ではなくて本当は「叔父」(祖父の子)という意味ですね。
 
 
祖父の愛人を妻にさせられその間に生まれた子供を認知しなければいけないなど、真実ならかなり屈辱だったでしょう。でも珠子はおそらく魔性系美女(彼女の2人の娘も当代きっての美女)で、鳥羽天皇と彼女との間には他に6人子供が生まれていることから、夫婦仲はよろしかったのかもしれません。

 
 

3歳で即位した崇徳天皇

 
 
1123年、白河上皇は孫の鳥羽天皇が成人して力を持つ恐れが出てきたため、幼い曾孫の顕仁(あきひと)親王に譲位するよう迫りました。鳥羽天皇は祖父の命には逆らえず、まだ3歳の顕仁(あきひと)親王に譲位します。
 
 
そうして顕仁(あきひと)親王は崇徳天皇になり、鳥羽天皇は上皇になりました。もちろん「院政」を行って朝廷を仕切っていたのは、相変わらず白河上皇のままです。鳥羽上皇が祖父・白河上皇を煙たく思い恨み憎んでいたとてしても不思議ではありません。
 
 
しかし1129年、ついに4代にわたる天皇の上で権力を握っていた白河上皇が亡くなりました。
  
 
 
ようやく鳥羽上皇が院政を行う時代が来たのです。このとき崇徳天皇は11歳でした。
 
 
院政を行う人が「曽祖父」から「父」にシフトしたことで、崇徳天皇に対する待遇が大きく変わることになります。
 
 
鳥羽上皇はこれまで押さえつけられていた反動で、祖父のお気に入りの貴族や、祖父から押し付けられた后の藤原珠子、そして「叔父子」である崇徳天皇を冷遇しました。
 
 
そして、1139年、鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)との間に体仁(なりひと)親王が誕生しました。鳥羽上皇と美福門院は体仁親王を次の天皇にしようと画策し、体仁親王を崇徳天皇とその中宮・藤原聖子の養子にして「皇太子」(本当は弟)にしました。
 
 
一方、崇徳天皇と女房・兵衛佐局との間には、第1皇子・重仁親王が誕生しました。
 
 
崇徳天皇が23歳のとき、鳥羽上皇は皇太子(実際は弟)の体仁親王に譲位するよう彼に迫りました。鳥羽上皇は崇徳天皇に院政を行わせないため、寵愛する得子との子・体仁親王を天皇にしようとしたのです。
 
 
院政を行えるのは直系の「天皇の父親(または祖父)」のみです。体仁親王は崇徳天皇の弟でしたが養子になっているので、この時点では息子(直系)扱いになります。だから、崇徳天皇は自分が院政を行う権利があると思わされていました。

 
 

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「皇太弟事件」で院政から外される

 

 
そうして、崇徳天皇が崇徳上皇になり、体仁親王が近衛天皇になりました。
 
 
ところが正式に発表された譲位の書には、近衛天皇は崇徳上皇の「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれていたのです。
 
 
上皇になっても「天皇の兄」には院政を行う権利はありません。
 
 
鳥羽上皇にだまされたとわかった崇徳上皇は、大変ショックを受けました。
 
 
でもまだチャンスは残っていました。なぜかというと、崇徳上皇の息子・重仁親王が美福門院の養子になっていて次の天皇候補として有力視されていたからです。近衛天皇が跡継ぎを残さずに亡くなった場合、まだ重仁親王が次の天皇になる可能性が残っています。そうすると、崇徳上皇が院政を行える立場になれるのです。
 
 
はかない望みを持ちながら、崇徳上皇はもともと好きだった和歌の世界に没頭していきました。鳥羽上皇が和歌にあまり関心がなかったこともあり、崇徳上皇の周りには和歌好きの貴族が集まりました。そうして先人の良い和歌を集めた「詞花和歌集」や自分たちの和歌を集めた「久安百首」を作りました。
 
 
しばらくの間、表向きは穏やかな日々が続きます。
 
 
ところが1155年、もともと病弱だった近衛天皇が跡継ぎを残さないまま早死してしまったのです。またまた跡継ぎ争い勃発です。
 
 
そのとき鳥羽天皇の后・得子(美福門院)の養子になっていた有力な天皇候補は2人、重仁親王守仁親王でした。
 
 
重仁親王は崇徳天皇(鳥羽上皇の第1皇子)の息子
守仁親王は崇徳上皇の弟・雅仁親王(鳥羽上皇の第4皇子)の息子

です。
 
 
議論の結果、次の天皇になったのはなんと雅仁親王でした。鳥羽上皇は守仁親王を天皇にしたかったのですが、「中継ぎ」としてまず父の雅仁親王を後白河天皇に即位させたのです。
 
 
その理由は、父親の雅仁親王を飛び越えて即位させることに反対意見が出たためとか、鳥羽上皇が亡くなったとき唯一の上皇の崇徳上皇が院政を行う可能性があったためといわれます。
 
 
雅仁親王は崇徳天皇の「弟」です。雅仁親王が後白河天皇に即位した時点で、崇徳上皇が院政を行える望みは絶たれました。
 
 
後白河天皇誕生の裏には、鳥羽上皇が崇徳上皇を嫌っていただけではなく、寵姫の美福門院、後白河天皇の乳母の夫で権力を狙う信西、弟の藤原頼長と対立していた摂関家の藤原忠通などの思惑がありました。
 
 
この決定には、朝廷中が驚きました。いちばん驚いたのは、後白河天皇本人だったかもしれません。
 
 
なぜなら彼は皇位継承から遠い存在だったので、すでに出家していて政治にまったく関心がなく、当時流行っていた「今様」が大好きという遊び人だったからです。
 
 
後白河天皇は28歳でしたが「中継ぎ」らしくこれまでどおり政治の実権は鳥羽上皇が握っていました。
 
 
しかし、即位の翌年1156年、鳥羽上皇が突然病になり、そのまま亡くなってしまったのです。
 
 
崇徳上皇は父の見舞いに駆け付けましたが会わせてもらえず、後白河天皇側の妨害にあい、その死に立ち会うことすらできませんでした。

 
 

「保元の乱」で讃岐国へ配流

 

 
鳥羽上皇が亡くなったことで、朝廷内のパワーバランスが一気に崩れました。
 
 
貴族や武士が崇徳上皇派後白河天皇派に分かれ、とうとう武力衝突に発展してしまいます。
 
 
それが「保元の乱」です。
 
 
「保元の乱」についてはこちらをどうぞ。

   ↓


 
「保元の乱」は、たった一日で後白河天皇派の勝利で幕を閉じました。
 
 
敗走した崇徳上皇は仁和寺に出頭して出家し、藤原頼長は頭に矢傷を受けて戦死、源為朝ら武士は処刑(斬首)されました。
 
 
その後、崇徳上皇は讃岐国に配流されることに決まりました。天皇や上皇の配流は淡路に流された淳仁天皇以来、約400年ぶりのことでした。
 
 
崇徳上皇は牛車に乗せられて、仁和寺からそのまま11日かけて讃岐国に送られました。付き添ったのは、中宮の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と女御の2名だけでした。
 
 
讃岐での崇徳上皇は、もともと好きな和歌を詠んだり、仏教に傾倒して写経に励んだりしていたそうです。
 
 
そして1164年、京に戻ることのないまま46歳のとき讃岐国で亡くなりました。

 
 

おわりに


 
出生から最期まで運命に翻弄された崇徳上皇。
 
 
さらっと生涯をなぞるだけでも、さぞ無念な一生だったろうと想像できます。
 
 
同時代やそれ以降の人々のそのような思いが、崇徳上皇を「怨霊」として復活させたのでしょう。
 
 
でも、実際に彼の残した和歌を見ていくと、穏やかで優しい雰囲気のものが多いです。
 
 
本当の彼は、もしかしたら歴史上作られたキャラクターとはまったく違っていたのではないかとも思えるのでした。

 
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