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幕末期は、戦国時代と共に、激動の時代ですね。こういう乱世には、英雄と呼ぶにふさわしい人がたくさん登場します。
 
 
日本が近代国家へと移行するこの時代、様々な立場で今後の日本の行く末を案じ、身を捧げて戦う人がたくさんいました。
 
 
中でも、歴史的に見ると敗軍なのに、「新選組」の人気は根強いです。特に、「鬼の副長」土方歳三の人気は絶大です。
 
 
都落ちして会津、五稜郭へと敗退するうちに、この人はどんどん人間的にかっこよくなっていく感じがしますね。
 
 
今回は、そんな土方歳三のキャラクターについて、エピソードを交えて紹介します。

 
 

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やっぱり怖かった「鬼の副長」

 

 
新選組といえば、鉄の掟血の粛清
 
 
この組織は、敵はもちろんのこと、内部の人への「粛清」が目立ちます。
 
 
もともと烏合の衆で、目指すものがズレてる人が多かったため、規律を厳しくしなければ統制が取れなかったのでしょう。
 
 
攘夷志士に対する拷問や、内部の掟破り・裏切り者の粛清、取り締まりを統括していたのが、副長の土方歳三でした。
 
 
内部粛清は、初代局長の芹沢鴨(寝込みを襲ったので暗殺に近いですが)やナンバー2の山南敬助など、かなり組織の上位の人も対象になっています。
 
 
新選組は、当時の京の町人からは、無骨で血生臭いところから「壬生狼」と呼ばれ、あまり好かれていなかったようです。
 
 
でも、色男は例外なのでしょうか?
 
 
鬼の副長は、やたらと島原(遊郭)でも人気者だったようですよ。(^^)

 
 

イケメンモテモテ説

 

 
幕末は、かなり現代に近いので、写真に残っている人も多いです。
 
 
土方歳三もその1人です。確かに女子にモテそうな端正な顔立ちをしています。身長も168cmと、当時にしては長身ですらっとした体型です。
 
 
そのイケメンっぷりは、地元でも有名だったそうですよ。
 
 
京の都では、新選組はあまり人気がなかったけれど、この人は例外で色町でも大人気でした。
 
 
おもしろいことに、故郷の姉に宛てて「とにかくモテまくって仕方がない。仕事に手が回らないほどだ」と何度か手紙を送っています。
 
 
拷問とかやってた人とは思えないこの可愛さも、モテる条件の1つですね。( ̄▽ ̄)

 
 

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俳句が好き

 

 
新選組といえばバリバリの武闘派なイメージがありますが、なんと土方歳三は俳句をたしなむ風流な一面がありました。
 
 
「豊玉」という俳号を持ち、故郷を立つ前に『豊玉発句集』という全部で41首の俳句をおさめた発句集を残しています。実は、土方家は、「俳諧の連歌」などをみんなでたしなむ風流な家でもあったのです。
 
 
司馬遼太郎によると、はっきり言って俳句は下手くそなのだそうですが、忙しい人で精進することなどできなかったでしょうから、当然といえば当然だと思います。
 
 
そんな土方さんの有名な代表作はこちらです!

 
 
1.梅の花 一輪咲いても 梅は梅
 
 
実は私、この句、すごく好きなのです!
 
 
一度聞いたら覚えるこの簡潔さ、潔いと思いませんか?
 
自然の中に咲く梅の花を、すごく素直な気持ちで詠んだ句だなと思えます。「写生」に通じますね。
 
 
土方歳三の俳句は、俳句の専門家たちからは、酷評されまくっています。でも、私は、すごくきれいな目をした子供が詠んだ句のように思えるのです。

 
 
2.差し向かう 心は清き 水鏡
 
 
近藤勇や沖田総司などと指し向かって座った状態で、その心は水鏡に写したように同じ理想を持っていて清らかだという意味です。
 
 
京に上ることを目前にして、武士として生きる覚悟を詠んだ歌ですね。美しいです。

 
 

剣の腕は確かだった!?

 

 
土方歳三は、武術はどれほど強かったのでしょう?
 
新選組で剣豪と知られるのは、永倉新八、沖田総司、斉藤一です。
 
土方歳三は、彼らには及ばなかったようですが、「天然理心流」の剣士で、かなり強かったそうです。そして、なぜか喧嘩は、アホほど強かったそうです。
 
 
彼は立場的に指揮官なので、これぐらいで十分強かったといえるでしょう。
 
 
最近、乙女ゲームやアニメの影響で、刀剣ブームが起こっていますね。土方歳三が愛用した刀としてよく知られているのが、大刀「和泉守兼定」です。
 
 
実は、この刀だけでなく、他にも大刀「葵越前康継」と脇差の「堀川国広」があります。
 
 
「堀川国広」は今は失われてしまいましたが、「和泉守兼定」と「葵越前康継」「大和守源秀國」は実物が保存されています。

 
 

1.和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)

 

 
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「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」は、実は2本あります。
 
 
1本は、11代和泉守兼定作の大刀で、京都守護職で会津藩主の松平容保より下賜されたものです。新撰組副長として京都にいた当時に使用していました。
 
 
この刀は、研ぎ師の記録に残っているので実存したのは確かなのですが、現在は行方が分かりません。
 
 
もう1本は、12代和泉守兼定作のもので、箱館戦争の際に、義兄・佐藤彦五郎に贈られました。その後、佐藤家から土方歳三の実家に贈られて、現在は土方歳三の生家のあった場所にある「土方歳三資料館」に展示されています。

 
 

2.葵越前康継(あおいえちぜんやすつぐ)

 
 
「葵越前康継(あおいえちぜんやすつぐ)」は南蛮鉄を使って作られた刀匠です。
 
 
土方が持っていた刀には刀剣の試し切り役として有名な山田浅右衛門家の八代山田浅右衛門吉豊とその兄の在吉が試し切りをしたという銘が刻まれています。かなりの銘刀ですよ!
 
 
この刀は、甲州勝沼の戦いの敗戦後に、土方が義兄の佐藤彦五郎に贈ったため、現存しています。現在保管されているのは、「佐藤彦五郎新撰組資料館」です。

 
 

3.「大和守源秀國(やまとのかみみなもとのひでくに)」

 
 
「大和守源秀國(やまとのかみみなもとのひでくに)」は、兼定につぐ会津の刀工・秀国の作で、刃長は2尺2寸8分、直刃の実用刀です。
 
 
「大和守源源秀國」は京都の「霊山歴史館」に所蔵されています。この刀剣は、鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いなど、戊辰戦争の際に使用されたと考えられているんですよ。
 
 
土方歳三が所有していた「大和守秀國」は、縁金に主が好きだった「梅の意匠」が施されています。
 
 
鞘(さや)の一部には帯で擦れ螺鈿がはがれたようなあとがあり、「和泉守兼定」同様によく使い込まれていたことが分かります。

 
 

4.堀川国広(ほりかわくにひろ)

 

 
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「堀川国広(ほりかわくにひろ)」は「脇差」、つまり短刀で、「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」と一対として所持していたといわれます。
 
 
名工・堀川国広の刀はたいへん高価だったため、土方歳三が所持していた「堀川国広」は「贋作」だったのではとも疑われています。
 
 
土方歳三が「函館戦争」で戦死した後、「堀川国広」は行方不明になりました。

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【参考図書】



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