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こんにちは。
幕末の京の都の治安維持部隊として活躍した新選組。
彼らは、不逞浪士たちから京の治安を守るという任務についていました。
新選組といえば、今はかなりの知名度ですが、実際に彼らが京で活動したのは、1863年ー1868年という、わずか5年ほどの間でした。
そして、常に危険と隣り合わせの任務であったこともあり、優れた剣の使い手が多く所属していました。
そうなると、最強は誰だったの?と、気になります。
ということで、今回は、新選組最強剣士について、私の独断と偏見を盛り込んでお届けします。
目次
新選組の最強剣士を決めるのは、凄く困難だー!
新選組で最強と呼ばれる剣士は、数人います。
で、結局誰なのと言われると、簡単に答えられる人は、いないのではないでしょうか。
なぜなら、平和な江戸時代では、道場の試合などではっきり1位を決めることもできましたが、ときは動乱の幕末期です。
乱世にあって最強とは、まさに「実戦に強い者」を指します。
そうすると、同じ条件で1対1で戦うわけではないので、誰が一番かというのは、非常に判断しにくいのです。
新選組の戦い方は、常に敵1人に対して複数人、数の優位を利用して有利に戦う戦法でした。
また、隊士の数は固定されておらず、増えたり減ったりと流動的でした。
多いときは、200人ぐらいいたそうです。
そんなこんなで、なかなか最強剣士を特定しにくいのですが、面白いので考えてみます。
強かったといわれる隊士
新選組で絶対最強!といえば、沖田総司・斎藤一・永倉新八の名が上がります。
確かに、当時の他の隊士の納得の発言もあるので、この3人で決定でしょう。
彼らのことは、後述します。
まずは、新選組の代表・近藤勇と土方歳三は、どうだったのでしょうか?
この2人は、強かったとしても、司令塔なので、実戦で最前線に立つ機会は、当然少なかったと思われます。
近藤勇
天然理心流の道場「試衛館」の代表でしたが、剣技は沖田総司のほうが強かったともいわれます。
でも、彼は、実戦では相当強い剣士でした。近藤勇が、実戦で先頭に立って戦ったのは、池田屋事件のときです。このときは、長州の尊王派志士20数名に対し、新選組は10名、数で劣る中、近藤勇は、援軍(土方隊)が来るまで、約2時間を戦い抜いています。
沖田が昏倒、藤堂が負傷し戦闘不能になった中、永倉新八と近藤勇は、最期まで残りました。しかも、彼はほとんど無傷です。
実戦は、試合のように技やセンスだけでは計れません。
覇気や豪胆さを必要とされる実戦の剣では、彼は、相当強かったでしょう。
「真剣を持たせると敵なし」といわれた事が、それを物語っています。
「池田屋事件」を簡単に説明!新選組局長・豪胆な剣士・近藤勇
土方歳三
彼は、「鬼の副長」として、組織の統括や指令もろもろの業務に追われていたので、実戦で真っ先に切り込んでいくような立場には、あまり立っていません。
ただ、若いころから、喧嘩はアホほど強かったと伝えられます。
一応、天然理心流ですが、我流に近い剣だったので、試合の相手をするのを、他の隊士たちから嫌がられたそうです。
新撰組一のモテ男!鬼の副長・土方歳三の4つの魅力!
その他にも、強かったといわれた人がいますよ。
芹沢鴨
芹沢鴨は新選組初期の局長でしたが、近藤勇、土方歳三らに酔っているとき寝込みを襲われ暗殺されます。酒宴を設けて酔っぱらわせたのは、近藤勇らです。そういう時代だったので、仕方のないことかもしれませんが、卑怯だなと思ってしまいます。
こういうシチュエーションをわざわざ作って、複数人で闇討ちしたところからも、相当手ごわい人だったと分かりますね。
神道無念流免許皆伝で師範代です。永倉新八と同じ流派の先輩でした。
原田左之助
原田左之助は、新選組十番組組長でした。
当時、新選組が使っていた武器は、ほとんどが剣です。
でも、剣術以外、柔術や棒術、槍術が得意な隊士も、実はたくさんいたのです。
原田左之助は、種田流槍術の槍の名手でした。
槍は剣よりも長いので、凄い使い手が手にすると、有利に違いない武器ですね。
服部武雄
私は、この服部武雄が、新選組で活躍していたら最強だったかもしれないと思っています。
彼は怪力の持ち主で、二刀流の達人でもあり、剣術、柔術、槍術すべての武術の相当の使い手として知られていました。
しかし、伊藤甲子太郎について新選組を脱退し、御陵衛士になります。
そして、油小路事件で殺された伊東の屍骸の引き取りの際に、待ち伏せしていた新撰組隊士たちに斬られて亡くなるのです。
ただ一人、武装していた服部は、仲間を逃がすために道を開き、壁を背にして多勢の新選組隊士に対峙しました。
最期は、原田左之助の槍が致命傷となり、両手に刀を持ったまま、傷だらけで大の字で倒れていたそうです。目撃した桑名藩士は、見事な最期だったと伝えています。
吉村貫一郎
この人が最強といわれ、知名度が高めなのは、浅田次郎の歴史小説「壬生義士伝」の主人公だったからだと思います。映画化もされています。
私は、全く最強とは思えないです。
最強の3人・トップは誰だ?
さてさて、個人戦で最も強かったと誉れ高いお三方、沖田総司、永倉新八、斎藤一は、新選組の1~3番隊の組長でした。
ちなみに、新選組(後に御陵衛士)の阿部十郎は、後に、新選組の小説を書いた子母澤寛のインタビューで、「沖田君より永倉君の方がちと稽古が進んでいた」と語っています。あくまで、道場の剣法ですけれどね。
沖田総司は、肺結核で夭逝しますが、永倉新八と斎藤一は、1915年、大正4年まで長生きします。
沖田総司
一番組組長で、近藤勇に弟のように思われていた沖田総司。
彼は、天才剣士と言われていました。
稽古はすごく厳しくて、師匠の近藤勇からも注意を受けたほどです。
彼の得意技は、「三段突き」と呼ばれる早業でした。
しかし、結核の症状が重くなり、途中からは戦いに参加していません。
池田屋事件の際も、途中で戦闘不能に陥っています。
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永倉新八
二番組組長で、神道無念流の免許皆伝です。
池田屋事件では、近藤勇と共に最期まで戦い抜きました。左手の親指に深い傷を負い、刀が折れてしまったそうですが、落ちていた刀を使って戦い続けたといわれます。
沖田総司が、療養生活に入り出動できなくなってからは、沖田の一番組も共に率いて、前線で戦い続けました。
ちなみに、永倉は、後に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語っています。
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斎藤一
斎藤一は、三番組組長で、池田屋事件をはじめ、新選組が関わった戦闘のほとんどに関与しています。また、危険な諜報活動にも、多く従事していたとされています。
戊辰戦争では、会津戦争まで戦いましたし、1877年の西南戦争にも従軍しています。
そうしたことから、新選組でもっとも多く人を斬った剣士といわれます。
確かに、そうかもと思えるのでした。
彼は、道場の試合にはあまり出たがらなかったとも、伝えられます。
流派も分かりませんでしたが、最近の研究では、無外流といわれます。
最強剣士は○○!
私の独断ですが、総合的に考えていいますと・・・
斎藤一 か 永倉新八
この2人は、優劣がつけられません。( ̄▽ ̄)
しいて言うなら、実戦1位は斎藤一、道場1位は永倉新八です。
理由
永倉新八
●道場の試合では、阿部がいうように沖田より進んでいた
●竹刀を用いての試合は、右に出るものがなかった
●実戦にも強いことは、池田屋事件その他で証明されている
斎藤一
●あらゆる戦いに前線で参加しているのに、ほぼ無傷。
●西南戦争でも、英雄扱いで新聞に載っている。
●永倉が「無敵」の剣と言っていることからも、最強を示唆している。
●最近まで流派が分からなかったほど、道場試合はしていない。
●実戦向きの暗殺剣に近かったのではないかと思われる
でも、もし沖田総司が健康で活躍していたら、1位だったかもしれません。
また、近藤勇が、最前線で戦っていたとしたら、実戦で1位だったかもしれないと思います。
あなたのご意見は、いかがでしょう?(´・ω・)
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