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こんにちはー♪
「応仁の乱」を語るとき、「守護」という言葉がよく出てきます。
これ、官職の名前なのですが、ちょっと分かりにくいですね。
どんなことをしていた人なのか、いまいち謎です。
今回は、そんな「守護大名」について、「応仁の乱」と関係のある人たち中心に、できるだけ簡単にお伝えしたいと思います。
まず、おさらいすると、「応仁の乱」の主な原因は、3つありました。
(1)将軍家の世継ぎ問題
(2)畠山家・斯波家の家督争い
(3)守護大名・国人たちの争い
原因(2)の家督争いをする畠山家・斯波家というのは、「守護大名」です。
「誰それ?」と言いたくなるほど、知名度低いですね。
「応仁の乱」のよくわからんところは、このうっすい脇役級の人が、いっぱい出てくるところなんですね。つまんないと思うのもわかりますが、もう少しお付き合いください。
当時、室町幕府の力は、徐々に求心力を失い、守護大名の中には、大きな権力を持つものもいました。
今回は、「応仁の乱」に登場する守護の人がどういう家の人だったのか、お伝えします。
目次
将軍家は絶対的でなく武家連合政権のようだった
室町幕府は、南北朝の戦いで足利氏が勝って開いた政権です。
その成立時から、そんなに将軍の力は強くはなく、将軍家と守護大名との武家連合のようなものでした。
もっとも、3代義満、4代義持、6代義教(←当初だけですが)の時代は、まだしっかりリーダシップを発揮できていて、守護大名たちをまとめていたのです。
でも、かつて、将軍家に反旗をひるがえして反乱を起こした山名家が、「応仁の乱」でも主役級で活躍していたという点からも、将軍家が絶対的な権力を持ってたわけではなかったんだなーと分かります。
室町幕府の中央組織を大事な所だけ紹介します
歴史を勉強するとき、一番めんどくさくて退屈だったのが、政府の組織を覚える事でした。
もおおおお、全然おもしろいくない!!
テストに出るから仕方なく細かいところまで覚えたけど、歴史は細部より流れを知るほうがおもしろいし、人物を見るほうが、物語みたいでずっとずっと楽しいです。
ですから、ここでは、「応仁の乱」の主要登場人物が、室町幕府の中央組織の中でどんな地位にあったのか、そこにしぼってお伝えします。
(1)問題の畠山家と斯波家は「管領」だった
室町幕府の将軍直轄の組織は、2つあります。
それが、将軍直轄軍の「奉公衆」と将軍の補佐役の「管領」です。
この「管領」というのが、鎌倉幕府の執権にあたる「宰相」のような重要な役割を担っていたのです。
「応仁の乱」の原因の1つ、家督争いをする「畠山家」「斯波家」そして、東軍の将「細川家」は、すべてこの「管領」という地位の家柄でした。
「管領」は、細川家・畠山家・斯波家の3つの「家」だけが、勤めることができたのです。
彼らはすべて、将軍足利家の一門で、「三管領」と呼ばれ、幕府内で将軍に次ぐ権力を持っていました。
江戸幕府の「御三家」のような特別待遇の家だったわけです。
ですから、畠山家と斯波家の家督争いというのは、すごく大きな権力者の家の争いだったのです。
元をたどればみんな親戚という、厄介な関係なんですね。
力が拮抗した親戚同士の争いほど、恨みが強く長引くものはないと思います。
畠山家の家督争いは、将軍の跡継ぎ問題が解決し、東軍(細川家)と西軍(山名家)が和睦した後も、最後の最後まで治まりませんでした。
(2)山名家は「侍所」の「四識」だった
「管領」の下には、4つの組織があります。
それが、「侍所」「政所」「問注所」「平定衆」です。
中でも、大事なのは、「侍所(さむらいどころ)」と呼ばれる組織です。
「侍所」の長官の「所司」は、「管領」に次ぐ権力を持っていました。
この「所司」を務められたのは、山名家・一色家・京極家・赤松家・土岐家だけです。
この5つの家は、室町幕府創生時に功績を残した「家」なのでした。
後に土岐家からの就任がなくなり、4つの家が務めることになりました。
山名家・一色家・京極家・赤松家を「四識」と呼びます。
義政の父・6代将軍義教を暗殺したのは赤松家で、「応仁の乱」の西軍の将は山名家の人です。
(3)みんな「守護大名」だった?
守護大名は、日本全国、各地に派遣された国の代表者です。
地方を治める守護職は、主に幕府創生時に活躍した家柄が務めました。
それらには、「足利家の一族」「外様」「在地領主」があります。
そして、今までに紹介した「三管領」「四識」は、すべて守護大名です。
三管領は「足利氏の一族」で、四識の山名家や一色家は「外様」です。
「在地領主」には、島津家や大友家がいました。
江戸時代もずっと長く統治し続けた九州地方のこの2大名家は、名門です。
戦国時代のドラマを見ていると、今川家や武田家、上杉家の紹介に「名門の」とつくのは、これらが守護大名から戦国大名に移行できた家だからなのです。
守護の地位は安泰ではなく、幕府から職を取り上げられることもあれば、守護職をめぐって守護同士が争うこともありました。
まとめ
室町幕府は、将軍の力が絶対的というわけでなく、武家連合政権のような雰囲気のものでした。
「将軍」>「三管領」>「四識」
の順に、大きな権力を持っていました。
「三管領」:細川家・畠山家・斯波家
「四識」:山名家・一色家・京極家・赤松家
「応仁の乱」でわちゃわちゃと争っている人たちの幹部は、ほとんどがこの守護職の家の人でした。
それに、(また別記事で紹介しますが)その下の国人同士の領地争いがからんで、ますますややこしくなっていくのです。
11年争う間に守護大名の力は、どんどんそがれていきます。
そして、力を失っていった地方の守護が、その下で働いていた人たちに滅ぼされるという「下剋上」の時代、戦国時代に突入するのです。
次回は、「応仁の乱」が長引く1つの原因となった国人(こくじん)について、お伝えします♪
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「応仁の乱」で台頭する「国人」と「足軽」は、どんな人たちだった?