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こんにちは。
 
 
坂本龍馬は、明治維新がもうそこまで来ている1866年に、伏見の寺田屋という旅籠で、襲撃されます。
 
このとき、彼は負傷してしまうのですが、危機一髪、逃げられたのでした!
 
 
幕末には、寺田屋事件・近江屋事件・池田屋事件という、宿屋(旅籠)が舞台の3つの有名事件があって、混乱しそうですね。
 
 
ちょっと、整理しましょうか。
坂本龍馬は「寺田屋事件」では助かりますが、翌年1867年の「近江屋事件」で、暗殺されます。
 
「池田屋事件」は、龍馬が襲われた事件とは、まったく別物なのでした。これは、1864年に「新選組」が、長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した事件です。新選組のデビュー戦のような事件でした。
 
 
寺田屋は伏見の舟宿で、近江屋と池田屋は京都市内の宿屋です。
 

 
 

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なぜ伏見の「寺田屋」が襲撃されたのか?

 

 
京都の伏見にある寺田屋は、龍馬が襲われる「寺田屋事件」の前にも、奉行所の役人に襲撃されています。
 
 
そのときのターゲットは、尊王攘夷派の薩摩藩士でした。
 
 
この寺田屋は、薩摩藩士がしょっちゅう利用していた宿なのです。
それで、龍馬襲撃事件の4年前にも、捕り物があったのでした。
 
 
なぜ、攘夷派の薩摩藩士が集まっていたのかというと、それはもう、この宿が居心地がよかったからなんですね。
 
 
寺田屋の女将は、お登勢(とせ)という人でした。
 
尊皇派の志士たちは、このお登勢を慕って、寺田屋によく泊まっていたのです。
 
だから、この宿が巻き込まれてしまったのでした。

 
 

1866年の寺田屋事件の流れを簡単に説明!

 

 
薩長同盟の会談を終えた後、坂本龍馬は薩摩藩士に扮して、長州藩の護衛・三吉慎蔵らと一緒に、寺田屋に宿泊していました。
 
それを、伏見奉行の林肥後守忠交が、捕縛しようとしたのです。
 
 
深夜2時頃、寺田屋は伏見奉行が派遣した捕り方30人ほどに、取り囲まれました。
 
それにいち早く気付いたのは、入浴中だった龍馬の妻になるお龍(りょう)です。真夜中過ぎてるのに、お風呂に入ってたんでしょうかね。
 
外に人の気配を感じたお龍は、着物を羽織って(一説には全裸で)、すぐに裏階段を駆け上がり、龍馬たちに危機を知らせたのでした。
 
 
【関連記事】坂本龍馬が寺田屋で襲われたとき、妻になるお龍もいた理由
 
 
役人たちは肥後守からの上意を主張して迫りました。龍馬は、自分たちが奉行所の権限の及ばない薩摩藩士だと主張します。
 
でも、簡単に見破られてしまいます。
そりゃあ、ちょっと話をしたら、言葉遣い(方言)が違うからバレバレでしょう。
 
 
役人たちに襲われたため、龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で防戦し、2人を射殺しました。
 
その後も応戦しますが、多勢に無勢です。龍馬は拳銃を持つ左手に刀傷を負って、戦えなくなってしまいました。
このとき、拳銃を落として、失くしてしまったそうです。
 
でも、共に戦っていた三吉が槍で応戦して、隣の家の壁を壊し、2人は屋根づたいに逃げて、無事脱出できたのでした。
 
 
材木屋の資材置き場に隠れた2人は、その後、薩摩藩邸に助けられます。
 
それから、報告を受けた西郷隆盛が軍医を送ってくれて、薩摩藩邸で治療してもらえたのでした。
 
 
坂本龍馬は、このまま京都にいては危険なので、西郷隆盛のすすめで大阪から薩摩へ渡り、薩摩藩内に身を隠すことにしました。
 
そのとき、龍馬は奥さんのお龍(りょう)を連れて薩摩に行きました。
それが、日本初の新婚旅行といわれています。
 
でも、なんかこれ、少しこじつけっぽい感じもします。

 
 

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日本初の「新婚旅行」とは言われているけど……

 

 
寺田屋事件の後、すぐに龍馬とお龍(りょう)は結婚します。
 
そして、一旦、京都から離れようということで、大坂の港から船で薩摩(鹿児島)に向かいました。
 
 
龍馬は薩摩についてから、お龍を連れて霧島温泉などの湯地場(とうじば)で、傷をいやしたといわれます。
 
 
でも、大坂・薩摩間の船には、西郷隆盛も寺田屋で一緒に襲撃された三吉慎蔵も、乗っていました。そして、龍馬とお龍は薩摩に着くと、やり手の家老・小松帯刀の屋敷に宿泊しています。
 
 
まあ、必要に迫られて仕事もしながら、また、傷の養生をしながら、新婚旅行もしていたという感じでしょうね。
 
 
お龍さんにとっては、素敵な思い出作りになったと思います。

 
 

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