この記事を読むのに必要な時間は約 11 分です。
こんにちは。
今回は、新選組のブレーン・山南敬助についてお伝えします。
彼は、「試衛館」時代から近藤勇・土方歳三らと共にいたのに、あまり知られていなくて謎だらけの人物なんですよ。
そもそも名前がよく分からないんです。
「山南」と書かれているので、「やまなみ」とも「さんなん」とも読めますね。
大河ドラマ「新選組!」では、堺雅人さんが演じていて「やまなみ」さんと呼ばれてましたが、最近の大人気アニメ(ゲーム)「薄桜鬼」では「さんなん」さんと呼ばれています。
また、「三南」という表記の史料が残っているので、「さんなん」が正しいのではという意見も多いです。
苗字すらわかっていないというのが、なんともミステリアスですね。
彼は、新選組の総長を務めていたのに1865年、脱走して切腹という壮絶な最期を遂げたのです。
隊士に信頼されていたブレーン的存在
山南敬助は、北辰一刀流と小野一刀流を修めた強い剣士でした。天然理心流の近藤勇と他流試合をして敗れたこで、試衛館と縁ができます。近藤の道場の門弟になりたいと申し出て、その食客となったのです。
試衛館時代から一緒で、京に上った同士たちは、近藤はじめ、多くが腕に覚えのある無骨な感じの武人でした。
そんな中で、山南は剣術の腕前だけでなく、学もあり教養も豊か、つまり、文武両道を修めた人だったのです。
新選組のことが大嫌いで、悪口をいっぱい書き残している西本願寺寺侍の西村兼文は、なぜか山南敬介は「理のわきまえある者」とほめています。
話をするとき、礼をつくせる人だったと分かりますね。
また、新選組の前身の壬生浪士組が屯所を構えた八木邸の少年・八木為三郎は、後に山南のことを、子供好きな人で、どこであっても自分から話しかけられたと言っています。また、壬生界隈の女性や子供にも慕われていたそうです。
女性や子供が声をかけやすかったのですから、優しそうな雰囲気の男性だったのでしょう。
そういえば、沖田総司も、彼のことを実の兄のように慕っていたそうです。
変わりゆく新選組に失望したのか?
山南敬助は新選組を脱走し、最期は切腹して果てます。
その理由も、実は確かなことは分かっていないんです。
脱走して追っ手の沖田総司に見つかり連れ戻されて切腹したというのが通説ですが、その脱走の理由は、一体なんだったのでしょう?
芸者との駆け落ち説というのもありますが、いろいろな面で、当時の新選組のやり方についていけなくなった、または、もうついていきたくなくなったというのが本音だったのではないでしょうか。
伊藤甲子太郎との確執も、アニメなどではよく描かれますが、ちょっと違うと思います。伊藤は、脱走して連れ戻された山南に、脱走を進めています。それだけ気にかける仲だったということでしょう。
彼は、西本願寺への屯所移転の問題で、近藤・土方と意見が違い対立していました。また、掟の厳しさや近藤らのだまし討ちをするようなやり方に失望した、もしくは、この数年の諸々の出来事への不満が重なったというのもあるかもしれません。
彼は、真面目で一本気の人だったと思われます。
近藤勇らは、局長になるまでもなってからも、結構、邪魔者を卑怯な手段で抹殺しています。
そんな彼らを身近に見ていて、自分の夢見た京での活躍とは違うと絶望してしまったのかもしれません。「尊王攘夷」の志で上洛したはずなのに、幕府と朝廷が対立すると、新選組は一気に「佐幕派」に傾いていきます。その思想にも、共感できなかったと思います。
山南の屯所での切腹は、近藤ら新選組の指導者に対する抗議の切腹だったという説もあります。
小説やドラマでも、よく脱走したのに沖田が追いかけてくるのを待っているかのような、覚悟を感じさせるような演出が多いです。
近藤が、山南を兄のように慕っていた沖田に追跡させたのはすごいなと思いますが、介錯を沖田に頼んだ山南もすごいなと思います。
山南敬介は、1865年3月23日に、壬生屯所の前川邸で切腹します。
33歳でした。
芸者明里との涙の別れ
山南には、島原の遊女・明里という恋人がいたという恋話が残っています
切腹が決まった山南と知らせを受けて駆けつけた明里との、格子ごしの別れの場面は、ドラマでは切ないラブロマンスとして描かれます。
でも、これはフィクションの可能性が高いといわれているんですよ。
新選組の小説を書いていた子母澤寛の創作といわれます。彼の作品は創作が多いです。
その点、永倉新八の書いた『新撰組顛末記』は、当事者だけに主観は入りますが、きちんと実話に基づいたものが多いです。その『新撰組顛末記』には、明里のことなどまったく書かれていないのでした。
でも、女性にも好かれていた彼ならではの、美しい逸話だと思います。
山南敬介の葬儀は、前川邸で行われました。
その葬儀には、壬生の近隣住人らも多くつめかけ、その死を悼んだそうです。
彼のお墓は、壬生に近い「光緑寺」にあります。
【関連記事】