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こんにちは。
 
2018年は「明治維新150年」ということで、NHKの大河ドラマも「西郷どん」という幕末物ですね。
 
西郷隆盛は、薩摩藩出身の下級武士で、幕末に大活躍して、明治維新に貢献した1人です。
 
「維新三傑」に名を連ねたにもかかわらず、1877年(明治10年)に、なぜか明治新政府と戦い負けて自決します。
 
 
最後は賊軍となったのですが、鹿児島での西郷隆盛の人気は、とても高いのだそうです。
 
 
今回は、西郷隆盛の一生について、できるだけ分かりやすく簡単に説明します。年表は、この記事の最後にあります。

 

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島津斉彬に見いだされ出世する

 

 
西郷隆盛(吉之助)の出身は、薩摩藩の下級藩士でした。
 
 
武士とはいっても、下から2番目の階級で、小さい頃からその日の食事にも事欠く貧しい生活をしていました。
 
 
薩摩には、同じ地域の男子だけを集めて年長の男子が年少の男子を教育する郷中教育というシステムがありました。
 
 
西郷吉之助(隆盛)の出身の下加冶屋町の郷中は、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛など、幕末に活躍した多くの政治家、軍人が生まれた場所です。
 
 
若いころから体格がよく面倒見のよい西郷吉之助は、若者たちのリーダーになっていきました。大久保利通とは、幼なじみです。
 
 
下級武士の吉之助が政治の表舞台に立てたのは、藩主の島津斉彬に引き立ててもらえたからです。
 
 
西郷は、斉彬を先見の明がある素晴らしい君主と、心から尊敬していました。でも、斉彬は、明治維新前に急死してしまったのです。

 
 

薩摩の代表として「薩長同盟」を結ぶ

 

 
1864年の「禁門の変」(蛤御門の変)で、吉之助は薩摩軍の指揮官として、長州藩と戦い勝利しました。でも、その後、状況が変わって江戸幕府を倒すと決めた西郷は、1866年に長州藩と仲直りをし、薩長同盟を結んだのです。
 
 
このときの長州藩の代表は桂小五郎(木戸孝允)、2藩の仲介役を買って出たのが坂本龍馬らでした。
 
 
その後、薩摩藩は徳川家の幕府軍と戦いました。そして、最終的には幕府側の勝海舟と話し合い、江戸城を開城させることを決め、ここでもリーダーとして活躍したのでした。
 
 
明治政府の新体制の中でも、西郷は参議や陸軍大将、近衛都督など、さまざまな役目に就任しました。
 
 
欧州視察に行っていた大久保利通らが帰ってくると、鎖国している韓国を武力で開国させようとする議論(征韓論)が湧きあがります。西郷は自分が交渉役になって韓国に赴き、平和的に解決したいと希望しました。
 
 
でも、それは、大久保ら反対派の画策で失敗します。失望した西郷は、明治政府の参議を辞任して、鹿児島に帰ることに決めました。
 
 
そして、1877年、鹿児島で不平士族のリーダーにかつがれて「西南戦争」を起こし、政府軍に敗れて自刃したのです。
 

 

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西郷隆盛が西南戦争を起こした理由

 

 
薩摩に下野してからの西郷隆盛は、私学校を開いてはいましたが、余生を静かに暮らすつもりだったといわれます。
 
                                                                
でも、なぜか彼の周りには、教えを求めて人が集まってきました。彼は人を寄せ付ける磁力のようなものを持っていたという人もいるほどです。
 
 
そして、実はこの頃、士族階級の不満が爆発しそうなほど高まっていたのです。
 
 
明治新政府によって、さまざまな武士の特権が取り上げられていったからです。特に、廃刀令は、武士のアイデンティティである帯刀を禁止されるものでした。これに不満を持った士族は、秋月の乱、萩の乱など、次々と反乱を起こしました。でも、これらはすべて明治政府に鎮圧されたのです。
 
 
西郷隆盛が鹿児島に帰ったのはそんな不穏な時期だったのです。ですから明治政府は、西郷の行動を警戒し、注視していました。
 
 
西郷が私学校を作り若者を教育したのは、武器を手に立ち上がろうとする彼らを抑えるためだったともいわれます。でも、私学校の規模が大きくなるにつれ、政府はますます彼を警戒しました。
 
 
その政府側の動きを知った一部の生徒が、ある日、鹿児島にある政府の火薬庫を襲撃して、武器を奪ってしまったのでした。
 
 
西郷はその知らせを聞き、「しもた!」(しまった!)と叫びました。もう薩摩の若者の暴走を止めることはできないと、分かったのでしょう。
 
 
西南戦争の際、西郷はほとんど自ら進んで指揮することはなかったそうです。彼は、士族の若者たちに担がれていただけだったかもしれないのです。
 
 
それでも、それが彼の選んだ最後の道だったのでしょう。

 
 

おわりに


西郷隆盛は、明治維新の功労者でありながら、最期はその作り上げた明治新政府と戦い滅んだのです。
 
 
そういう最期が、またまた判官贔屓が好きな日本人の心情に訴えるのでしょう。
 
 
さて、大河ドラマの中の「西郷隆盛」は、どのような姿に描かれるでしょうね。楽しみです。
 

 

西郷隆盛の簡単な年表

 
・1828年(0歳)
薩摩国・下加治屋町で生まれます。
 
・1854年(26歳)
薩摩藩藩主、島津斉彬に仕える。
 
・1864年(36歳)
「池田屋事件」→「禁門の変」(蛤御門の変)
薩摩藩の軍隊を指揮し、長州藩と戦い圧勝。
 
・1866年(38歳)
薩摩藩と長州藩が「薩長同盟」を締結。
 
・1867年(39歳)
明治天皇即位
「近江屋事件」で坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺される。
 
・1868年(40歳)
幕府側の勝海舟と交渉し、江戸城無血開城。
 
・1871年(43歳)
岩倉使節団が欧米視察に出発。
隆盛は留守役として政府のかじ取りをする。
 
・1873年(45歳)
「征韓論」で旧友の大久保利通と意見が分かれ敗れる。
明治政府の参議を辞任し薩摩に下野する。
 
・1874年(46歳)
鹿児島(薩摩)に私学校を設立する。
 
・1877年(49歳)
西南戦争を起こし政府軍に敗北、城山で自決。
 
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