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こんにちは。
明治維新の三傑は、木戸孝允(桂小五郎)・西郷隆盛、そして、大久保利通です。
大久保利通は、3人の中でもっとも長生きし、明治新政府の参議として活躍したのに、知名度も人気も、他の2人と比べていまいちですね。
それた多分、彼は英雄や革命家ではなく、政治家として有能だったからでしょう。薩摩では大久保利通は人気がないそうですが、私はかなりすごい人だと思います。
大久保利通は、1878年に、不平士族に暗殺されました。
なぜ、彼はこの年にこの場所で襲われてしまったのでしょう。
殺害現場は、凄惨を極めたそうですよ。
今回は、大久保利通暗殺の理由と考えられる黒幕について、お伝えします。
大久保利通・紀尾井坂の変で惨殺
1878年5月14日、明治新政府の要人・大久保利通が、東京の紀尾井坂で暗殺されました。紀尾井坂は、今の参議院清水谷議員宿舎前の坂のことです。
朝の8時頃、霞が関にあった自宅から、明治天皇に謁見するため赤坂の仮皇居に向かう最中の事件でした。
大久保は、御者の中村太郎と従者の芳松とともに、二頭立ての馬車に乗っていました。
大久保ほどの要人に、護衛がついていなかったというのが驚きです。
暗殺犯は6名の不平士族です。
まず、従者の芳松が襲われ斬り付けられますが、なんとか逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めに行きました。
御者の中村太朗は、馬車から飛び降りたところ、斬られて命を落とします。
でも、彼らの目的は、あくまで大久保利通の首した。
大久保は、暗殺者に対して「無礼者!」と一喝しましたが、首謀者の島田一郎が、大久保の眉間に斬りかかりました。
その直後、他の暗殺者たちが駆け付け、大久保を馬車から引きずりおろし、よってたかってめった刺しにしたのです。
助けを求めに行った芳松が、警官たちと共に再び現場に駆けつけたときには、大久保と中村はすでに絶命していました。
大久保は全身に16カ所もの傷を受け、そのうちの半数以上は頭部に集中し、脳髄が頭蓋骨から出て、まだヒクヒクと動いていたそうです。(参考:『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』)
この描写からすると、顔面や頭部がたいへんなことになっていたでしょう。首に突きたてられた日本刀は、地面にまでぐっさりと刺さっていたそうです。
暗殺者の強い憎しみが感じられます。
大久保利通・暗殺の5つの理由
暗殺者6名は、その後、すぐに自首しました。
暗殺の実行犯は石川の士族・島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一、そして、島根の士族の浅井寿篤でした。
暗殺犯が大久保を暗殺する際に持っていた斬奸状(暗殺する理由を書いた文書)には、5つの殺害理由が書かれていました。
↓
1.国会も憲法も開設せず民権を抑圧している
2.法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている
3.不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている
4.国を思う志士を排斥し内乱を引き起こした
5.外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている
この殺害理由、いかがでしょう?
不平士族から見ると、確かにそう見えるかもしれない部分もありますね。
2の官吏の登用にコネは蔓延していたでしょうし、4は西南戦争など士族の反乱をさしているのでしょう。5の外国との不平等条約の改正も難しいです。
でも、明治政府はまだ形を整えたばかりでした。そして、これらの課題は、大久保1人の力で、すぐに改善できるようなものではないですね。
大久保利通は、日本の政治基盤をしっかり作るため「30年計画」を立てていました。それは、明治元年から30年までを「創業期」・「内治整理・殖産興業期」「後継者による守成期」の3期に分けたもので、自分はその第2期まで尽力したいと考えていたのです。
第3期を後進に託すために、できる限りのことをしようと努力していたのでしょう。
そう考えると、暗殺犯のしたことは、たんなる逆恨みともとれます。
いずれにせよ、明治政府の逸材を抹殺した罪は重いです。
なぜ大久保が狙われた?
実は、このとき暗殺犯が狙っていたのは、大久保利通1人ではありませんでした。
彼らは、こちらの政府の高官7人の命を狙っていたのです。
↓
木戸孝允
大久保利通
岩倉具視
大隈重信
伊藤博文
黒田清隆
川路利良
一番始めに名前のある木戸孝允は、この年、すでに病死していました。
岩倉具視も新政府を作った主要人物でしたが、この4年前に別件で暗殺未遂事件にあっています。
他にも、このあと暗殺されたり襲撃されたりした人が多いですね。なぜ、もっと用心して護衛をつけなかったのでしょう。
この7人の特徴から、「紀尾井坂の変」は、西南戦争の恨みを残す士族、西郷隆盛やその側近だったという説があります。
この事件が西南戦争の翌年ということから、影響を受けているのは間違いないでしょう。
「征韓論」をめぐる論争で、大久保の企みで西郷が下野することになり、不平士族の不満が、特に大久保に集中したとも思えます。
いずれにせよ、大久保は、新政府創設でできたひずみにより、強い不満を持った者たちの恨みを一身に受けてしまったのでしょう。
政治家としては、かなりの逸材だと思うので、残念です。