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こんにちは、このかです。
 
 
幕末は、あちらこちらで「○○組」というのが結成されましたね。
 
 
薩摩藩「精忠組」もその1つです。
 
 
この組織、斎藤隆盛や大久保利通らが結成したものなのです。いつどんな目的で作られたのか、お伝えしますね。

 
 

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もとは読書会で精忠組という名ではなかった

 

 
「精忠組」と呼ばれる組織は、もともと西郷隆盛や大久保利通らが作った読書会でした。名称は「近思録」といい、朱子学の本を読む会として結成されたものなのです。
 
 
ちなみに、「精忠組」という名前は結成した本人たちが名付けたものではありません。後世に命名された名前なのです。
 
 
この会の結成したのは、例のお家騒動「お由羅騒動」がきっかけといわれます。つまり、島津家が斉彬派と由羅派(久光派)に別れて争っていたとき、斉彬派の武士たちが集まって結成された集まりだったのです。
 
 
単なる趣味の読書会の集まりではなく、彼らは同志で、数年後には力をつけ藩主も無視できない一大勢力となっていったのでした。
 
 
当時、島津斉彬の藩主就任は難しいと思われていましたが、最終的には、懇意にしていた老中筆頭・阿部正弘の介入によって、斉彬が島津藩主になることに成功しました。
 
 
西洋文化に通じていた斉彬は、列強の殖産興業や富国強兵の策を次々と取り入れました。精忠組の人々にとっては、うれしいことだったでしょう。でも、島津斉彬は、残念なことに1858年に51歳で急死してしまいました。

 
 

過激化する精忠組

 

 
斉彬の死後、精忠組は亡き主君・斉彬の遺志を継ぐことを使命として運動していきます。
 
 
その使命というのは、主に斉彬と敵対していた幕府大老・井伊直弼の「安政の大獄」を止めさせ、新しい幕政改革を成し遂げるというものでした。
 
 
ちょうどこの頃は、西郷隆盛が月照と入水し、西郷だけ助かって奄美大島に隠れ住んでいた時期です。強いリーダーを欠いた精忠組の藩士たちは、どんどん過激な方向に進んでいってしまいました。
 
 
彼らは脱藩して水戸藩の志士たちと協力し、井伊直弼を襲撃しようと企てました。この計画は島津久光に露見し、未然に終わっています。

 
 

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一部の藩士が「桜田門外の変」に加わる

 

 
過激派ではあるけれど、精忠組の勢力を無視するの危険だと感じた島津久光は、精忠組を薩摩藩の正式な組織として扱うと決めました。
 
 
これは、目を離すと何をしだすかわからない精忠組への懐柔策だったのですが、彼らは藩から認められたと喜びました。
 
 
大久保一蔵らは、これによって島津久光のもとで働くこととなり、後に久光の懐刀と呼ばれるまでになるのです。
 
 
しかし、精忠組は一枚岩ではなく、その中でも特に過激な一部の志士の井伊直弼への反感は根強く残りました。そして、とうとう有村雄助・有村次左衛門兄弟(有村俊斎の弟たち)は、水戸藩士たちと合流し、「桜田門外の変」で井伊直弼の暗殺に成功したのです。
 
 
有村次左衛門はその場で斬られて死亡し、有村雄助は捕縛されて、その後、薩摩藩で切腹となりました。

 
 

精忠組の寺田屋騒動

 

 
1862年、島津久光は、幕政改革のために、挙兵して京都に入ることを計画していました。この行動はけっして「倒幕」のためではなく、あくまで朝廷と幕府を結びつける「公武合体」を進めるためのものだったのです。
 
 
しかし、久光が挙兵すると聞いた精忠組の過激な志士たちは、誤解して倒幕する気満々で大坂・京都に集結してしまいました。
 
 
そして、京の町に灯を放ち関白や京都所司代を暗殺しよう、そして島津久光に倒幕を決意させようと計画を練ったのです。
 
 
ちょうど、この頃、西郷隆盛は奄美大島から薩摩藩に戻って働いていました。精忠組の計画を聞きた西郷は彼らを止めなければと思い、「下関で待機しろ」という久光の命に背いて、上京してしまいます。
 
 
島津久光もその動きを聞きつけ、大久保一蔵や有村俊斎を派遣して、彼らの説得にあたらせたのですが失敗に終わったのです。
 
 
仕方なく今度は大山格之助ら剣術に優れた者達を派遣し、説得に応じなければ斬れと命じました。そこまでしても、過激な志士たちが説得に応じることはなく、大山格之助たちと有馬新七たちは、とうとう精忠組同士(薩摩藩士同士)で斬り合うことになってしまったのでした。
 
 
その場所が1866年に坂本龍馬が襲われたのと同じ伏見の舟宿「寺田屋」だったので、この事件も「寺田屋騒動」と呼ばれます。
 
 
当時、「寺田屋」は薩摩藩御用達の舟宿で、薩摩藩士たちがしょっちゅう出入りしていたのです。
 
 
この騒動で、襲った方も襲われた方も多くの者が亡くなり、生き残った過激派は捕縛されて切腹となりました。
 
 
過激派のほうの死亡者は、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、橋口伝蔵、弟子丸龍助、西田直五郎の6名、田中謙助、森山新五左衛門の2名が切腹を命じられました。
 
 
投降者は20名余りに及び、その中には西郷隆盛弟の西郷従道や従弟の大山巌も含まれていました。
 
 
精忠組が2つの勢力に分かれて戦ったため、精忠組はこの「寺田屋騒動」で消滅してしまいました。

 
 

精忠組の主要メンバー

 

 
精忠組の組員や人数は、そのときどきによって変わりましたが、歴史に登場する主要なメンバーを挙げておきます。
 
西郷隆盛
 
大久保利通
 
西郷従道(信吾)
 
村田新八
 
大山巌
 
大山格之助
 
有村俊斎(海江田信義)
 
有村雄助
 
有村次左衛門
 
伊地知正治
 
有馬新七

 

おわりに


もともとは、主君・島津斉彬を尊敬していた藩士の集まりだった精忠組は、「寺田屋騒動」で内部分裂して崩壊してしまいました。
 
 
でも、西郷隆盛、大久保利通、大山巌など、その生き残りたちが、その後の幕末・明治の中核となって活躍していくのです。
 
 
島津久光は厳格な処分を下したことで、朝廷や京の町衆から強い支持を得ました。町に火を放つ計画を立てるような物騒な人たちを、厳しく処してくれましたからね。
 
 
ちなみに、西郷隆盛は、「下関で待機」といわれたのを無視したため、久光をカンカンに怒らせてしまいます。彼は過激派を抑えるために行ったのに、あおりにいったという間違った報告がされたともいわれます。
 
 
それで、今度は本当に、島送りになってしまったのでした。(また、戻ってきますけど)
 
 
まったく、波乱万丈な人生です。

 
 
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