この記事を読むのに必要な時間は約 7 分です。
こんにちは!
西郷隆盛には、弟が3人いました。
次男 吉二郎
三男 信吾(従道)
四男 小兵衛
西郷隆盛の弟の中でもっともよく知られているのは、三男の西郷従道(西郷信吾)でしょう。
彼は、明治政府に残り初代海軍大臣となって、大きなお屋敷に住み大成功の人生を送りました。
↓↓
⇒西郷隆盛の弟・西郷従道は西南戦争に参加せず★別邸が「明治村」に?
従道(信吾)以外の2人は、西郷隆盛よりも先に戊辰戦争で戦死しています。
今回は、苦労人だった次男の西郷吉二郎についてお伝えします。大河ドラマ「西郷どん」では渡部豪太さんが演じていますよ。
長男の西郷隆盛に代わって家を守った吉二郎
吉二郎は西郷隆盛の5歳下の弟でした。
家族の中には、貧乏くじを引かされる者が出てきます。西郷家では間違いなくこの吉二郎です。
西郷隆盛は長男のくせに家をほったらかして、斉彬loveで自分のしたい生き方を貫きました。
彼は大変なお役目で流罪にもなった身とはいえ、自ら選んで身を投じたので充実した一生だったでしょう。
ほとんど薩摩に帰らない隆盛に代わって家と家族を守ったのが次男の吉二郎でした。
西郷家は貧しいうえに、隆盛が江戸へ出立するときに多額の借金をしています。借金をかえすどころか、大家族の飢えをしのぐだけでもたいへんな状態だったのです。
吉二郎は、毎日昼も夜も内職をし、田畑を耕し、大所帯の弟妹や子供、祖母の面倒をみていました。
でも、とうとう田畑を売り払うまでに困窮していたのです。それでも、なんとか歯を食いしばって頑張ったのでした。
西郷隆盛は、自分が薩摩や国のために奔走できるのは吉二郎のおかげだと語っていたそうですが、誰の目から見てもそうだったでしょう。感謝して当然です。
三男・従道は家を出て「精忠組」に入隊
弟の西郷従道は、成人すると「精忠組(誠忠組)」に入って活動しました。
「精忠組」はもともと大久保利通が先導していたのですが、、島津斉彬の死後は、大久保らの島津久光派(穏健派)と有馬新七らの過激化派に分かれて内部分裂しそうな組織になっていました。西郷従道は過激派でした。
内部の争いは、ついに1862年の薩摩藩の「寺田屋事件」として表面化します。西郷従道は、その事件で謹慎処分を受けてしまいました。
このとき、島津久光に嫌われていた西郷隆盛も流罪になりました。そして、この2人の兄弟の不始末は西郷家にも大きな影響を及ぼしたのです。
西郷家も懲罰を受け全員無職に!
西郷家はもともと大所帯の上、たいへん貧しい下級武士の家でした。
その上さらに、1862年の「寺田屋事件」と「西郷隆盛流刑」を受けて、西郷家も「遠慮処分」の罰則を受けたのです。
このときは、西郷家の男子全員が「無職」となったのでした。
「遠慮」という処分は「謹慎」よりは軽く、自宅での籠居を命じられたもののお客さんの出入りは自由に認められていました。また、夜間、人目に触れないようにひっそり外出するのは、黙認されたようです。
それでも、外で働くことを禁じられたので、西郷家は、貧困を極めました。
吉二郎が、一番家族の犠牲になっていますね。
彼は、有馬九之丞の娘・マスと結婚し1男1女をもうけますがマスは早くに亡くなってしまいます。その後、園という後妻を迎えました。
吉二郎・戊辰戦争の「北越戦争」に参加する
ずっと薩摩で大所帯の家を守り続けていた吉二郎に、ついに活躍の機会が回ってきました。
1868年(慶応4年)西郷吉二郎は、番兵2番隊監軍として従軍し越後に出兵しました。
長岡城をめぐる攻防戦「長岡城の戦い」の最中、吉二郎は越後国五十嵐川付近で被弾し、その傷がもとで戦死してしまったのです。享年36でした。
初戦で戦死とは、まったくあっけなくも不運な最期でした。
この「北越戦争」は、戊辰戦争の中でももっとも熾烈な激戦地の1つだったのです。
明治政府は吉二郎の功績を讃えて、残された家族に扶持米70俵を30年間贈り続けました。
最後まで家族のために尽くした吉二郎、彼の訃報を聞いたとき西郷隆盛はどれほど悲しかったでしょう。
西郷隆盛や従道については、こちらにお伝えしていますので、重ねてごらんください。
↓ ↓ ↓