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織田信秀(おだのぶひで)と聞いてピンとくる人は少ないと思いますが、「信長がお葬式のとき焼香を投げつけた親父」(by『信長公記』)と聞けば、歴史ドラマ好きな人は「ああ!」と思うはず。
 
 
息子がビッグネームすぎてかなり影が薄いですが、彼は織田家の基盤を築いた立派な親父です。
 
 
今回は、その親父さまのほうに注目していきます!

 
 

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織田家はしょぼい家柄だった?

 

 
織田信秀(おだのぶひで)は、尾張国出身です。
 
 
当時の尾張は守護が職斯波(しば)氏で、その下の守護代が織田家(惣領家)でした。
 
 
その織田家(惣領家)が15世紀後半に、斯波氏の家督争いの影響をうけて2つに分裂し、清洲織田氏(織田大和守家)岩倉織田氏(伊勢守家)に分かれてしまいました。
 
 
その片方の清洲織田氏の家臣で奉行職を勤めていたのが織田信秀の家、弾正忠家(だんじょうのじょうけ)なのです。
 
 
守護・斯波氏
  ↓
守護代・織田大和守
  ↓
奉行職・弾正忠家

 
 
「守護の家臣の家臣?」な感じですか・・・
 
 
ちなみに奉行職は、織田弾正忠(だんじょう)家、織田因幡守(いなばのかみ)家・織田藤左衛門(とうざえもん)家と3つの家がありました。
 
 
信秀の父・織田信定は子供が5男2女で、信秀はその長子でした。
 
 
でも、この当時はまだ「長子相続ルール」はなく嫡男は「実力主義」で選ばれたので、信秀は父から実力があると認められていたのでしょう。
 
 
彼は17歳で父の生前に家督を譲られているので期待の息子だったのかもしれませんね。

 
 

資本を手に入れ勢力を拡大

 

 
当時、尾張は守護の斯波(しば)氏が隣の今川氏と争いを繰り返し、勢力を弱めていました。
 
 
そうなると尾張の国衆は斯波氏から離れていき、ますます弱体化が進みます。すると、力をつけた領内の他家が、今がチャンスと武力で勢力拡大を狙うようになったのです。
 
 
弾正忠家もその1つでした。守護代の下の奉行職だった弾正忠家が大きく勢力を伸ばせたのは、信秀の父・信定の代で経済力を手に入れたというのが大きいです。
 
 
信定は伊勢湾貿易の要だった港町・島津を手に入れて勝幡(しょばた)城を築き、裕福な土豪を従えるのに成功しました。津島を領有化できたことで、経済的基盤を手に入れたのです。
 
 
つまり、織田氏の中で弾正忠家が台頭できたのは、商業都市を手に入れ安定した領地経営を行えたからでした。他家のように農作物の作柄で左右される不安定な経済状態にならなかったのです。
 
 
その豊かな経済力を背景に、信秀は積極的に戦いを仕かけ領土の拡大戦略を取り続けました。

 

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奇策で那古屋城を奪取

 

 
父から家督を引き継いだ織田信秀は、23歳のとき那古屋城(今の名古屋城)を今川氏豊から奪取しました。
 
 
那古野城は正攻法での奪取ではなく、『名古屋合戦記』の記述によると策略による乗っ取りのようなものでした。
 
 
まず、信秀は年若い那古屋城主・今川氏豊が連歌大好きの連歌狂だったのを知り、接近して歌仲間になったようです。
 
 
そして、那古野城にお泊りできるほど信頼を得た後、宿泊時に仮病をつかって家臣を呼び寄せ、城下に放火し近くに待機させていた軍勢を城内に入れてあっという間に城を乗っ取ったのです。
 
 
卑怯なだまし討ちとみるか、なかなかの策略家とみるか・・・
 
 
どっちにせよ、この那古屋城奪取の話は「織田信秀ってこういう奇策を使う人なんだ~」と人柄がうかがえるエピソードなのでした。

 
 

権威への根回しはバッチリ!

 

 
経済的に発展した織田信秀の弾正忠家は、どんどん勢いを増していきました。
 
 
そうすると、次は権威のある人(朝廷・将軍)に自分の家を認めてもらいたいと思うものです。
 
 
「応仁の乱」以降、京の都は飢饉も重なり荒廃しまくっていました。
 
 
そんな困った状態のとき、信秀は上洛して朝廷に献金したのです。
 
 
その返礼に、信秀は朝廷から「従五位下」の位を与えられ「備後守」に任官されました。
 
 
他には、室町幕府にも献金して、第13代将軍・足利義輝に拝謁し、さらに、伊勢神宮遷宮のための材木やお金(銭)を神宮に献上しました。
 
 
これに気を良くした朝廷から、その礼にと次は「三河守」に任じられています。
 
 
その後は、またまた朝廷への献金です。内裏修理料として銭4000貫文を献上し、朝廷への忠誠をアピールしました。
 
 
すごいばらまきですよ。
この「資本力」! 見事です!
 
 
いつの時代も「お金(銭)の力」は絶大なのです!

 
 

でも周りは敵だらけ

 

 
尾張国で勢力を伸ばした織田信秀は、内政は落ち着きつつあったものの敵対する勢力に囲まれていました。
 
 
まさに四面楚歌です。
 
 
北の美濃国では斎藤道三が台頭し、東の三河国では松平氏が勢力を広げており、その向こうには駿河国と遠江国を配下に治めた今川氏が控えていました。
 
 
信秀は松平氏(家康の祖父の時代)のスキを突いて三河に侵攻し、今川と激しく対立しました。この今川家とのごたごたの間に、幼い竹千代(後の徳川家康)を一時的に人質としてゲットしてます。(後に今川に渡した)
 
 
落ち着きつつあったとはいえ、弾正忠家はいまだ奉行職のままで主君の守護代(大和守家)、その上の守護(斯波氏)は残っていました。だから、弟など身内に城を与えて、そちらへのけん制も必要だったのです。
 
 
斯波氏を滅ぼして国を乗っ取らなかったところが、まだ義理固かったといえるでしょうか。

 
 

濃姫ゲットで斎藤家と和睦

 

 
周辺を敵に囲まれ続けては、さすがに消耗が激しいということで、織田信秀は美濃国との和睦を考えるようになりました。
 
 
当時、美濃は守護の土岐(とき)氏を追い出して、斎藤道三が国を治めていました。
 
 
その和睦の条件となったのが、信秀の嫡男・信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)との縁組です。
 
 
濃姫が信長の正室になったのは、こういういきさつなのです。

 
 

織田家の発展は息子にバトンタッチ

 

 
1552年、織田信秀は病に倒れました。そうして、末盛城で息を引き取りました。
 
 
信秀は弾正忠家を尾張国の有力勢力に引き上げましたが、国の統一には至りませんでした。
 
 
まだまだ志半ばだったでしょう。
 
 
その跡は、「大うつけ」信長にゆだねられたのです。
 
 
信秀については『信長公記』など一部の史料に残るのみなので、不確かなことが多いです。
 
 
でも、この人が織田家台頭の基礎を築いた、やり手の親父さまだったのは確かだと思えます。

 
 

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