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こんにちは。
藤原道長は、平安時代に権勢を誇った権力者です。この時代を語るときに欠かせない人物ですよ。
当時のまつりごとを牛耳っていたのは「藤原氏」です。その一族の中のトップに立つというのは、それはそれは大変な競争を勝ち抜いてきたということなのです。
今回は、そんな藤原道長の一生について、簡単に分かりやすく説明します。
年表は一番下にありますよ。
目次
◆5男だったが強運で公家の頂点に君臨する
藤原道長は、公家のトップの摂政・藤原兼家の五男として生まれました。
順当に考えて5番目ですよ。なかなか難しいです。
でも、995年、関白になっていた道長の長兄・藤原道隆が病で死去します。道長30歳のときでした。
その後を継いだ三兄の藤原道兼は、そのわずか数日後に流行り病で亡くなってしまいました。(「七日天下」といわれます)
そうして、生き残って元気だった藤原道長に、権力闘争にエントリーするチャンスが訪れたのです。
道長がトップに立つには、長兄・道隆の嫡男(つまり道長の甥)伊周(これちか)を破らねばなりません。道長はなんなく伊周との政争に勝ち、藤原氏筆頭となって左大臣に昇進しました。
でも、彼は兄のように関白にはならず、左大臣と内覧の地位にとどまりました。内覧というのは、天皇にわたる文書をチェックできる役職です。
つまり、権力を握るためには、こちらのほうが都合がよかったのでしょう。
当時の天皇・一条天皇には、愛する定子(ていし)という中宮がいました。兄・道隆の娘です。道長は、そんな一条天皇に、自分の娘・彰子(しょうし)を娶るようにすすめます。
そうして、一条天皇の后には、皇后・定子と中宮・彰子が並び立ったのです。
定子に仕えた女房の中に清少納言、彰子に仕えた女房の中に紫式部がいたので、この2人までライバル関係として取りざたされるようになりました。実際には、清少納言が後宮を去った後、紫式部が入宮しています。
◆摂関政治とは「摂政+関白」・道長は摂政に!
そうして、道長の孫、つまり一条天皇と彰子の間に生まれた皇子が、後一条天皇として即位しました。
道長は、このときに初めて孫である天皇の摂政になったのでした。
また、彼はそれだけではなく、次女の妍子(けんし)と三女の威子(いし)を、それぞれ三条天皇と後一条天皇の中宮にさせて、3人の中宮を立てる「 一家三立后 」という快挙を達成しました。
もう彼の権勢を脅かすものは存在しないかのように思えましたが、なんと道長は、この摂政の地位をたった1年で息子・頼通に譲ります。
常に権力闘争に明け暮れていた道長の体は、実は病にむしばまれていたのです。
摂関政治については、こちらを参考にしてください♪
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◆最高権力者も病には勝てなかった
道長を苦しめていた病は、なんだったでしょうか?
藤原実資の『 小右記 』に、当時の道長についての記載が見られます。
のどの渇きを訴えて大量に水を飲む、 背中に大きな腫れ物ができた、 目が見えなくなってきた 、やせ衰えたなどの病状の記録です。
これらの記述を考え合わせると、道長の死因は、糖尿病とその合併症だったと推測されています。
ストレス社会の中にいて運動不足、栄養の偏った食事という、生活習慣病になる現代と同じような生活です。平安貴族は塩分の多い干し物を食べることが多く、圧倒的にビタミン不足でした。
そんな病を患った道長は、政界から引退した後、出家します。当時の貴族のお決まりのコースでした。
そうして、建立した法成寺で、病気療養しながら浄土教にすがり、極楽往生を願いながら静かに暮らしたのでした。
◆国風文化への貢献
道長は、彰子を送り込んだ後宮のサロンを、才女だった定子の優雅なサロンのように華やかなものにしたいと考えました。そうすることで、一条天皇も、よく足を運ぶようになると考えたからです。
そうして、紫式部、和泉式部などの優秀な女房を集め、彰子のために知的サロンを作らせたのでした。
道長は、紫式部たち才女にとっては、活躍の場とチャンスを与えた偉大なパトロンだったのです。
こうして、1000年の後にも残る日本の傑作『源氏物語』が生まれ、日記文学、和歌などが発展していったのです。
政治がらみの思惑がからんでいたのは間違いないですが、結果的に道長は、国風文学の発展に大きく貢献したのでした。
◆おわりに
藤原道長について、最後にまとめておきますね。
- 強運の持ち主で藤原氏筆頭になった
- 周到に準備して政敵を滅ぼし、政界の頂点に立った
- 摂関政治を極めたがすぐに糖尿病で引退
- 国風文化の発展に貢献したパトロンだった
◆藤原道長 年表
西暦(年齢)
966年(1歳) 藤原兼家の五男として生まれる。
995年(30歳) 長兄関白・道隆と三兄・道兼が次々と死去。右大臣に就任。
996年(31歳) 「長徳の変」で甥の藤原伊周と隆家を失脚させる。左大臣に昇進。
1000年(35歳) 娘・彰子が一条天皇の中宮になる。
1008年(43歳) 彰子が「敦成親王」を出産。
1012年(47歳) 三条天皇に入内していた次女・妍子が中宮になる
1016年(51歳) 敦成親王が後一条天皇に即位。道長・摂政に就任。
1017年(52歳) 摂政職を嫡男・頼通に譲る。太政大臣に就任。
1018年(53歳) 三女・威子を「後一条天皇」の中宮に。
1019年(54歳) 出家。(病が重くなった?)
1028年(62歳) 死去。
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