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平安中期最大の権力者・藤原道長は、なぜか自信満々のおごり高ぶった人物という印象を持たれがちです。
その理由を考えてみると、やっぱりこれですね。この歌。
和歌の言葉の力というのは、強力ですね。
そういえは、平氏にも同じようなのがありました。
あの空気読めない発言「平氏にあらずんば・・・」。
でも、あれは平清盛が詠んだのではないんですよ。
それと同じようなおごり高ぶって調子に乗ったこの和歌は、正真正銘、藤原道長本人が詠んだ和歌です。
では、そのよく知られた和歌について、お伝えしましょう。
◆調子に乗りすぎてドン引きされた和歌
「 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば 」
この和歌を現代風に言うと、こうなります。
「この世は私のためにあるようなものだ。満月のように完璧さ。」
自信満々、調子に乗ってますね。もう大丈夫と安心している気持ちも伝わります。
ちなみに、藤原道長がどんな人かというのは、こちらをご覧ください。
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冷徹で計算高いイメージもある道長が、公の場で言ってしまったこの和歌、そのときの状況を見ていきましょう。
この和歌は、実はある人に向かって詠んだものでした。そのある人が、この和歌を書き残して後世の私たちに伝えた人なのです。
その人の名は、藤原実資(さねすけ)。
道長がこの和歌を詠んだのは、自分の邸で1018年のことです。
道長の三女・威子(いし)が後一条天皇の中宮になったお祝いの席での出来事でした。
当時の天皇は、道長の孫の後一条天皇、東宮はその弟(道長の孫)の後朱雀天皇でした。太皇太后は一条天皇の妻・彰子、皇太后は三条天皇の妻・妍子、そして中宮には後一条天皇の妻・威子が立后されました。
つまり、皇室の中心にいるのは、全員自分の娘たちと孫たちだったので、今後もずっと自分の子孫が天皇家として続くだろうと安心したときだったのです。
邸には多くの貴族たちが祝いにかけつけ、華やかな宴会が催されました。宴もたけなわと盛り上がったところで、道長は藤原実資に向かってこの和歌を詠んだのです。
ほろ酔い気分で、ついつい本音が出ちったよってとこでしょうか?
こういう場合、実資がそれに対する返歌を送るのがルールです。
でも、彼はその返歌を断って、その代わりに、その場にいた一同総出で今の素晴らしい和歌を声を揃えて詠じましょうと提案したのです
そうして、その場にいた一同揃ってこの和歌を復唱したのでしたー。
やられたって感じじゃないですか?
調子こいた恥ずかしい歌ですよ。
◆藤原実資ってどんな人だったの?
この和歌は、道長の栄華を書いた『大鏡』や『栄花物語』には取り上げられていません。
藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記』にだけ、はっきり記載されているのです。
そうして、それが後世、教科書に載るほど有名になったのでした。
これを書いた藤原実資(さねすけ)とは、どういう人だったのでしょう。
この一件だけ見ても、権力に媚びない、なかなか骨のある人物と見受けられますね。
そう、実際に彼はそういう人だったようです。
学問に秀でた秀才で、朝廷の礼式や法令などのしきたりにとてもくわしく、朝廷にはなくてはならない賢人物でした。後に右大臣になっています。
実力だけでなく、彼は藤原北家嫡流で、莫大な資産のある小野宮流を継承した大貴族でした。分家の道長(九条流)に比べて、家格も格上だったのです。
でも、だからといって威張るわけでもなく、道長に嫉妬するわけでもなく、筋をとおして自分のするべきことをやり遂げる人だったようです。
こういうタイプは、人におもねることをしないので、理不尽だと思ったらはっきり反論しますし、おかしいと思えば、ばんばん批判もします。
実資は道長の政治の手腕は認めていたようで、道長も実資の実務能力を高く買っていました。実資に向かって、「すぐそばにいるのに、顔がよく見えない」と目が悪くなっていることを言ったりしているので、気の許せる相手だったのでしょう。
実資は、みんながこびへつらう道長に向かって、実力的にも家格的にも、対等に意見できる数少ない人だったわけです。
実際、道長に対して、はっきり批判することもあったようですよ。
そんな実資に向かって、あんな和歌を口走ってしまったのは、道長の失態だったといえるでしょう。見事な切り替えしをされました。
おわりに
藤原実資は、この日記『小右記』の中に、いくつか道長に対する批判的な言葉を載せています。
彼の能力を買っていた道長でしたが、まさか1000年以上先の自分のイメージを決定づけられていたとは、考えもしなかったでしょうね。
おもしろいです。
藤原氏の「摂関政治」については、こちらに書きました。意外と道長はやってないんです。
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