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織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣は数知れず。そんな中、大きく貢献した武将なのに、なぜかあまり有名でない人もいます。
堀秀政(ほりひでまさ)は、まさにそんな1人です。
彼は「名人久太郎」と呼ばれるオールマイティー武将でした。とにかく何をやらせてもそつなくこなせる器用な人(名人)です。
頭脳明晰なだけでなく顔も美しく、10代前半の頃は信長に寵愛されたとかなんとか・・・
では、数々の戦で戦功をあげた堀秀政をご紹介します。
なんでもできる?器用な人
1553年、秀政は堀秀重の息子として生まれました。父・秀重は斎藤道三、織田信長に仕えた武将です。
秀政は小さい頃からとても綺麗な子で頭もとても良かったので、信長のお気に入りになりました。
10代前半の頃、信長に寵愛されてそのまま親衛隊(馬廻り)となり出世していった武将は他にもいるので、そんなに珍しい話じゃありません。
でも、もちろん信長は顔だけで家臣を選ぶほど甘くありません。彼は若いころから、かなりの秀才だったのです。
頭脳明晰で外交はバッチリ、さらに、一向一揆鎮圧や雑賀衆討伐など軍事面でも成果を上げていきました。
ずっと信長に仕えていたのですが、1582年「本能寺の変」で信長が討たれた後は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣になりました。
秀吉に味方し明智軍をやっつけた
「本能寺の変」が起こったとき、原秀政はどこで何をしていたでしょう。
そのころ彼は信長の命だった徳川家康の接待を終え、秀吉の援軍として中国地方に向かっている最中でした。
「本能寺の変」「信長自害」の一報が入ったのは、ちょうど備中(岡山県)にいたころです。
堀秀政は知らせを聞くとすぐに羽柴軍に組すると決め、「中国大返し」で近畿に向かってマラソン中の秀吉と合流、「山崎の戦い」にしっかり間に合いました。
こういうとき、行動力のともなった秀才の働きはブラボーです。
そして、彼は高山右近らととも「山崎の合戦」で先陣を務めたのです。
ちなみに、我が地元の元領主さま・キリシタン大名・高山右近は、山崎のすぐそばなので駆けつけるのはラクチンだったでしょう。
その後、堀政秀はそのまま山崎(大坂よりの京都の端っこ)から近江(滋賀県大津市)まで明智軍を追いかけ、追いつめていきました。容赦しませんよ~。
そして、琵琶湖の近くで、秀政は明智軍の大物・明智秀満とバッタリ出会ったのです。
ここで会ったが百年目と交戦し、敗退する明智軍をさらに追いかけましたが、琵琶湖に出た秀満は、馬ごと琵琶湖に中に乗り入れて泳いで逃げ去ってしまったのです。
これが、「左馬助の湖水渡り」伝説です。(左馬之助=秀満)
これには、さすがの秀政もびっくり!
ここは一旦冷静に見送って、坂本城に逃げ込んだところを包囲し、秀満を自害に追い込みました。
明智秀満は、明智五宿老の1人で光秀の重臣中の重臣でした。
秀吉の信頼は絶大だった
信長の家臣で信任厚かった堀秀政は、その後、秀吉からも信頼され重んじられました。
「清須会議」の後は、柴田勝家への「北ノ庄城攻め」や徳川家康との「小牧・長久手の戦い)」に参加し、島津氏などへの「九州征伐」では先鋒を務めました。
「九州征伐」でも連戦連勝、絶好調です。
あまりに勝ちまくるので、「少し休みたいから3日は持ちこたえてくれ」という手紙を島津(敵)に送り、戦意を喪失させたという逸話が残っています。
でも、これだけいろんな戦で成果を上げているということは、それだけ忙殺されていたということですね。
燃え尽きないか心配・・・
でも、心配する必要はありませんでした。
まさかの突然死、死因は?
なぜなら1590年、北条氏への「小田原征伐」の最中、堀秀政は突然亡くなってしまったのです。享年38歳。
死因は病死、疫病だったといわれますが、はっきりしません。
秀吉の信頼厚かった堀秀政は、三法師(織田秀信)の後見役に選ばれていました。
こういう有能な人の突然死は、どうも死因が真実か勘繰りたくなります。病死って本当かよ・・・
彼は織田家の行く末を案じていたそうですが、その後の織田家のことを思うと、まだよい時期に亡くなったかもしれないと思ったりするのでした。
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