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こんにちは。
幕末の京都で市中の治安を守るため働いていた「新選組」。
彼らは会津藩のおかかえ警備隊でしたが、もとは「武士になりたい農民集団」でした。
「武士になりたい」と願ったあたりが、時代と逆行していてなんだか切ないですね。
でも、その時代を生きた彼らには、「武士」という階級がなくなるなんて知る由もありません。
「新選組」も「鳥羽伏見の戦い」に「旧幕府軍」として参加しています。
彼らはどこでどんな戦いぶりを見せたのでしょう?
近藤勇は負傷して不参加
慶応三年(1867)12月16日、「王政復古の大号令」が発せられ、新選組は京の都を退き「伏見奉行所」に駐屯しました。
伏見は、旧幕府軍の前線拠点となる場所です。
ところが、12月19日、局長の近藤勇は二条城での会議から伏見奉行所へ帰る道で、何者かによる銃撃にあい右肩に銃弾を受けたのです。
一行は伏見の城下町に入る直前で襲撃されました。
その場所は「伏見街道」が「大和街道」へと名前を変えるあたりです。京都市伏見区藤森から丹波橋までの間だといわれています。
襲撃犯は、その前月に「油小路の変」で「新選組」に暗殺された伊東甲子太郎の一派、「御陵衛士(高台寺党)」の残党でした。
彼らは薩摩藩の伏見屋敷にかくまわれ、屋敷から持ち出した鉄砲を使って伊藤甲子太郎の復讐をしようと企てたのです。
重傷を負った近藤勇は、「鳥羽伏見の戦い」が始まった1月3日には大坂城で治療を受けていたため、指揮をとることができませんでした。
それで、代わりに副長の土方歳三が「新撰組」の指揮をとることになったのです。
「鳥羽伏見の戦い」参戦
1868年1月3日、鳥羽街道で進撃した「旧幕府軍」とそれを阻もうとする「薩摩軍」の間で武力衝突が起こりました。
その銃声が聞こえると、伏見でも両軍による戦闘が開始しました。
当時の「旧幕府軍」は「新政府軍」のような最新銃器を持っていなかったら大敗したという説もありますが、それは誤りです。
旧幕府軍はフランスの援助を受けていたので、実は「新政府軍」より最新式の武器を使って戦っていたのです。
この戦いで土方歳三が、「もはや刀や槍の時代ではなくなった」と嘆いたという逸話が残っています。
それは、彼らが武芸に秀でた強い「武士」になることを人生の目標としていたからでしょう。
戦い方が銃器や大砲に変わり、「もはや戦いに剣豪は必要ない時代になった」と悟って、副長は嘆いたのです。
「鳥羽伏見の戦い」は統率できる指揮官が不在でした。伏見の司令官だった竹中重固は、伏見奉行所が炎上するやいなや、部隊を放り出して堀川をこえて逃げ出してしまったのです。
指揮系統がめちゃくちゃになった「新政府軍」は、敵の砲火になすすべもなく壊滅し退却していきました。
翌日、新政府軍側に「錦の御旗」が揚がると、朝敵となるのを恐れた淀藩など「旧幕府軍」諸藩の寝返りが目立つようになりました。
「新選組」は奮戦し、二番組組長の永倉新八らが唯一敵陣への斬り込みに成功しています。さすが最強剣士です!
その後、彼らは宇治川や八幡山麓あたりで退却しながら応戦しましたが、、6日に将軍・徳川慶喜が江戸へ逃亡したのを受け、全軍は崩壊してしまいました。
六番組組長・井上源三郎が戦死
「鳥羽伏見の戦い」の開戦前に150名ほどいた新撰組隊士は、江戸で再結成したときにはわずか40数名になっていたそうです。
その内、「鳥羽伏見の戦い」での戦死者は22名、負傷者は約70名でした。
「新選組」は、応戦しながら「伏見」から「淀」へ退却しました。
そして、淀千両松で官軍と激突し(淀千両松の戦い)六番組組長・井上源三郎が銃弾を受けて戦死しました。(享年40)
井上源三郎は近藤・土方らと日野の道場にいたときから一緒だった戦友で、「新選組」では主に外交を担当していました。
彼は近藤たちよりかなり年上で穏やかな人柄だったため、若い隊士たちから「源さん」と親しみを込めて呼ばれていたそうです。
その後の「新選組」
「鳥羽伏見の戦い」が終わると、「旧幕府軍」の首脳部は解散命令を出しました。それを受けて「新撰組」は富士山丸に乗船して江戸へと引き上げました。
その後、「旧幕府軍」は体制を立て直そうと試みます。
「新撰組」は江戸で再結成したときわずか40数名になっていました。
「鳥羽伏見の戦い」の死傷者の他、逃げ出したものや志を違えたものもいたからです。
残った新撰組隊士は、近藤勇の元で「甲州鎮撫隊」と名を改め、甲府城で再び進撃していた薩長中心の「新政府軍」と戦いました。
でも、この戦いにも敗れ、局長の近藤勇は逮捕、処刑されました。
副長の土方歳三ら数人の隊士はそのまま「旧幕府軍」と合流して北に進軍し、土方は「五稜郭」での戦死という形で終幕を迎えたのでした。
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