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こんにちは。
 
 
幕末の混乱期に「犬猿の仲」と思われていた長州藩と薩摩藩
 
 
この2藩がどういうわけか仲直りして、倒幕に進むきっかけとなったのが「薩長同盟」です。
 
 
正確には「仲直りして協力し合おうね」と決めたのであって「一緒に倒幕しようね」という相談はしてないんですけどね。
 
 
そのあたりも含めて、今回は薩長同盟を結んだ2藩の事情と内容・出席者・場所について、スッキリ簡単にお伝えします。

 
 

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◆薩長同盟はいつどこで誰が締結した?

 

 
「薩長同盟」は、仲の悪かった薩摩と長州が手を結ぶという離れ技だったので、とんとん拍子で進んだわけではありません。
 
 
武士というものはメンツを気にする生き物なので、協力はしたいけど自分から折れるのは嫌、なのでなかなか進展しなかったのです。めんどくさい人たちです。
 
 
それで、両者の仲を取り持つ形で坂本龍馬中岡慎太郎が動いたというわけなのですが、そのときの経緯と話合いの場所をまずはお伝えします。

 
 

(1)薩長同盟の出席者

 

 
<主要な出席者>
薩摩藩
西郷隆盛
小松帯刀

 
 
長州藩
木戸孝允(桂小五郎)
 
 
その他の薩摩藩の出席者は、大久保利通、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁でした。

 
 

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(2)薩長同盟の日時と締結場所

 
 
薩長同盟が締結されたのは、慶応2年(1866年)1月8日でした。
 
 
場所は・・・
 
 
★京都・二本松の薩摩藩邸
   ↓
★近衛家別邸「御花畑御屋敷跡」

 
 
会談の始まりは、京都御所の隣(北側)の京都・二本松の薩摩藩邸で行われました。
 
 
そこは現在、同志社大学になっています。西門に石碑が建ってますよ。先月行って写真撮ったところです。

    ↓

 
 
ここで西郷隆盛と木戸孝允が顔を合わせたのですが、とにかく両名とも自分から折れるのは嫌! 
 
 
・・・で、10日以上たっても、本題の薩長同盟の話を切り出すことができなかったのです。
 
 
そのとき、とっくに話し合っていると思っていた坂本龍馬があきれて乗り込み、両者の背中を押したと伝わります。(←龍馬推しドラマの見せ場ですが、真偽は不明)
 
 
そのとき、仕切り直すため新たな話し合いの場を設けたのが、堀川通一条東にある公家の近衛家別邸「御花畑お屋敷」でした。
 
 
五摂家筆頭・近衛家の別邸は、当時、薩摩藩の家老・小松帯刀が身を寄せていた場所でした。なので、今もその場所に残された石碑には、「小松帯刀寓居跡」の文字も記されています。
 
 
かくして、この場で薩長同盟が締結されたのでした。

 
 

(3)薩長同盟の原因

 

 
薩長同盟が成立したもっとも大きな理由は、薩摩藩と長州藩の「利害が一致」したからです。
 
 
どちらも幕府が目障りになってきていたということです。政治的な理由ですね。
 
 
薩摩藩はなんとか幕府の力をそぎたいけれど矢面には立ちたくない、長州藩は倒幕したいけれど武器が手に入らない・・・
 
 
薩摩藩は幕府に内緒で長州藩の代わりに武器を購入してそれを長州藩に横流しできる立場にありました。
 
 
そこで利害が一致した2藩は、同盟を結び幕府と対抗する勢力になったのです。
 
 
そうすることで、薩摩藩は長州藩との戦争を避けることができ、長州藩は武器を購入することができたというわけです。
 
 
その武器の売買の仲介をしたのが、坂本龍馬の作った日本初の商社「亀山社中」(後の海援隊)だったのです。

 
 

●薩摩藩の内情

 
 
薩摩藩は、イギリスとのつながりや琉球との密貿易で豊かな財力を身につけていました。財力だけでなく求心力も弱まっていた幕府からすると、かなり危険視されていたのです。
 
 
そのことは薩摩藩も察知していて、幕府が長州藩を討伐した後、薩摩が次の標的にされる恐れがあると感じていたのでした。
 
 
そんな状況で「長州征伐」に従うと、多くの経費と人材がかかり藩の力が衰えるのは目に見えています。
 
 
ですから、このときは、薩摩藩にとっての脅威はすでに徳川幕府になっていて、そのために長州藩と手を結ぶのはよい選択と考えらえたのです。

 
 

●長州藩の内情

 
 
長州藩は、このとき藩の存続にかかわるような大打撃を受けていました。
 
 
長州藩は朝敵認定されたので、徳川幕府が長州藩をさらに追い込むため「長州征伐」に乗り出しました。
 
 
おまけに、英仏蘭米四か国と連合軍と交戦した後で、藩内では穏健派と急進派の争いが過熱し、内政外交ともにガタガタの状態だったのです。
 
 
幕府の許可が下りないので、新たな武器を買うことができない長州藩は、他藩に攻め込まれないように対策を立て、なんとかして武器を確保したいと切望していたのでした。

 

 

(4)薩長同盟の内容

 

 
「薩長同盟」とは、いったいどのような内容で何を約束された同盟だったのでしょうか?
 
 
歴史ドラマでは坂本龍馬の仲介があってこそ成されたという描かれ方をされる場合が多いです。
 
 
確かに、最後の一押しをしたのは彼だったかもしれませんが、実際に坂本龍馬がどれほどこの同盟に貢献したかは実はわかっていません。
 
 
では、なぜこの同盟に坂本龍馬の名が大きく取り上げられるのかというと、薩長同盟の内容について書かれた「覚書」に立会人の立場で坂本龍馬の名が記されていたからです。
 
 
薩長同盟の会談の内容は、実はその場では記録されていません。正式な盟約書は、残されていないのです。
 
 
話し合いの内容は、後に木戸孝允が「6カ条」にまとめ、その内容を確認するため坂本龍馬に送った書簡(慶応2年1月23日付)にのみ残されています。
 
 
その書簡(覚書)の表面に「桂小五郎筆」(木戸孝允)、裏面に「坂本龍馬筆」と記されているのです。

 
 

●薩長同盟覚書「6カ条」

 

 
木戸孝允が書き残した薩長同盟の覚書は「6カ条」から成ります。
 
それを現代風に簡単に要約するとこのようになりますよ。
 

1.長州藩と幕府の戦争が始まったら薩摩藩は京都に2000人の軍を派遣、京都駐留の1000人の兵と合流して京都と大阪の守りを固める。
 
2.長州藩が幕府との戦争に勝機があれば、薩摩藩は朝廷に働きかけて幕府との講和を成立させる。
 
3.長州藩が負けそうな場合でも半年・1年で決着はつかないだろうから、その間に薩摩藩は長州藩を助ける策を考える。
 
4.戦争が終わって幕府軍が撤退したら、薩摩藩はすぐに朝廷に長州藩の無実を訴え、長州藩の名誉回復に尽力する。
 
5.もし幕府や会津藩、桑名藩が兵力を増強し、朝廷を利用して薩摩藩の行動を妨害した時は、薩摩藩も幕府に決戦を挑むこと。
 
6.長州藩の名誉が回復された場合は、共に一致団結して国と天皇の威光を回復するために尽力すること。

 
 
こうしてみても、やはり「倒幕しよう」という約束はどこにもありませんね。
 
 

◆「倒幕」はいつから?

 

 
薩長同盟が締結された年、1867年の12月に、一橋慶喜が将軍に就任しました。
 
 
薩摩藩、長州藩、そして公家の岩倉具視らは、これに危機感を募らせ朝廷に働きかけて「倒幕の密勅」を得ました。彼らが「倒幕」を本格的に意識し始めるのは、このころからです。
 
 
でも、その矢先、徳川慶喜が先手を打ったのです!
そう、「大政奉還」(1867年10月15日)ですよ。
 
 
大政を朝廷に奉還すると言われれば、即座に討幕に動くわけにはいかなくなりました。でも、まだまだ幕府主体の政治は変わらず続いています。
 
 
それで、薩摩藩、長州藩は、土佐藩や岩倉具視らと共にもう一度考え直し、体制の立て直しを図ったのです。
 
 
こうして、岩倉具視ら倒幕派の公家と薩摩、芸州、土佐、越前、尾張の5藩とが協調し、「王政復古の大号令」(1867年12月9日)を天皇に上奏したのでした。
 
 
「大政奉還」から2カ月も経ってません。
 
 
そして、薩長にとってなぜかすごよいこのタイミングで、孝明天皇が急死したのです。次の天皇、明治天皇はまだ未成年で、上奏に従うしかありません。
 
 
「王政復古の大号令」とは、徳川慶喜の「大政奉還」を受け入れた上で、旧来の組織を一新し「天皇中心の新政府」を樹立するというものでした。
 
 
これによって、幕藩体制は壊滅し、徳川家もただの一藩主という立場に置かれたのです。 
 
 
それで、「討幕は?」ということですが、それはこの後、「王政復古」に反対する幕府と会津藩と桑名藩(一会桑)を、この際一掃してしまおうかという動きが起こります。
 
 
そうして、とうとう「倒幕」の武力衝突が起こり、そ最初の戦いが、1868年1月3日の「鳥羽伏見の戦い」だったのです。
 
 
この戦いで岩倉具視大久保利通がこっそり作っていた天皇家の御紋入り「錦の御旗」が登場します。
 
 
「錦の御旗」が新政府軍によって掲げられた瞬間から、新政府軍が「官軍」、幕府軍が「賊軍」となったのでした。
 
 
ここから先は「薩長同盟」ではなく「戊辰戦争」の話になるので、また別の機会に譲りますね。
 
 
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