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こんにちは。
 
 
「西郷どん」3話に登場したいも泥棒の少年。中村半次郎と字幕に出たこの少年は、のちの西郷隆盛(吉之助)の腹心・桐野利秋です。
 
 
大河ドラマの2人の出会いは完全に創作ですが、彼らがいつどこで初めて会ったのか、実際は記録に残っていません。でも、だからこそ、大河ドラマの中で、この次に半次郎がどこで登場するのか、気になりますね。
 
 
彼は、幕末の京都で「人斬り半次郎」として知られた人ですが、実際どんな人だったかは、あまり知られていません。
 
 
姓名が完全に変わったので、同一人物だと知らない人もいるかもしれません。
 
 
ちなみに、半次郎に限らず、幕末の人たちは、名前をコロコロ変える人が多いです。ややこしいですね。桂小五郎なんて、暗殺者の目をくらませるためにたくさん名前を使ってしますし、大久保利通は、始めは「正助」、後に「一蔵」と名乗っていました。
 
 
ちなみに「正助」も「一蔵」も「通称」で、「利通」が「諱(いみな)」です。
 
 
明治時代になってから、「通称」と「諱」の使い分けが禁止になり、どちらか1つを名乗らなければならなくなりました。(どちらを選んでもよかった)
 
 
それで、現代人は、名前(諱)だけなんですね~。
 
 
大久保は「諱」の「利通」を選びました。
中村半次郎も、「半次郎」が「通称」で、「利秋」が「諱」なので「諱」を選んだのですね。「姓」を中村から桐野に変えたのは、祖先の姓だったからと言われます。
 
 
桐野利秋は、大柄で剣の達人だっただけでなく、人情深い性格で、常に身だしなみに気を配り、香水の香りをただよわせていたオシャレな伊達男だったと伝わりますよ。

 
 

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「池田屋騒動」で歴史上に名前が知られる

 
 
中村半次郎は、吉之助(西郷)よりも貧しい下級武士の子でした。ですから、彼の出生や幼い頃のことは、ほとんどわかっていません。吉之助より10歳ほど年下でした。
 
 
2人は、「西郷どん」で登場したように、薩摩で知り合っていたのかもしれませんが、記録には残っていません。西南戦争で共に戦った別府晋介は、母方の従弟で幼いころからとても仲がよかったそうです。
 
 
中村半次郎が、吉之助の元で働いていたと記録に残っているのは、「池田屋騒動」の頃からです。池田屋騒動は、新選組が主に長州藩の攘夷志士を襲撃した新選組のデビュー戦です。
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新選組のデビュー戦跡は「はなの舞・池田屋」に★薄桜鬼コラボドリンクあり

 
 

「人斬り半次郎」と呼ばれるけど、ほとんど人斬りはしていない

 

 
中村半次郎は、1862年、島津久光のお供で京に上ります。それから、とりわけ家老の小松帯刀に気に入られて、引き立てられるようになりました。
 
 
「池田屋騒動」の後、西郷隆盛は中村半次郎に、長州藩の過激な攘夷志士たちの動向を調べるように命じていたという記録が残っています。
 
 
その後も、ずっと長州の動向を探り薩摩のために働いていました。この頃、中村半次郎は、「人斬り半次郎」と呼ばれていました。
 
 
幕末には、「四大人斬り」と呼ばれる剣客がいました。あとの3人は、薩摩の田中新兵衛・肥後の河上彦斎・土佐の岡田以蔵です。
 
 
他の3人は、「天誅」と言って主に暗殺を請け負ったテロリストでしたが、中村半次郎は、少し違います。彼が斬ったのは、記録に残る限り、赤松小三郎だけで、それも大久保や西郷の命で動いたのではないかといわれます。
 
 
大柄でおしゃれだった彼は当然目立ったので、剣の達人としても知られていました。新選組の近藤局長が、「中村に会ったら剣を交えるな」と注意していたという逸話も残っています。(バックの薩摩藩ともめたくなかったという説もありますが)

 
 

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戊辰戦争・明治新政府でも大活躍

 

 
中村半次郎は、戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)では、切り込み隊長として西郷隆盛の指揮下で戦いました。
 
 
戦いの後、江戸城無血開城の話し合いの際、西郷隆盛と勝海舟の会談の成功のためにも、動いています。
 
 
江戸城の無血開城は、西郷隆盛と勝海舟2人の功労と思われがちですが、それは最終的なものです。彼ら2人の会談を成功させるため、幕府側の山岡鉄舟や薩摩の中村半次郎らが危険を顧みず奔走したから成し得たことでした。
 
 
西郷が、始めに山岡鉄舟と静岡で会談をしたとき、中村半次郎も同席していました。
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顔も中身もイケメンの山岡鉄舟★剣・禅・書の達人で江戸城無血開城の功労者
 
 
その後、中村半次郎は、上野の「彰義隊」との戦いでも活躍し、会津城攻略にも参加しました。

 

 

明治新政府の要人となる

 

 
中村半次郎は、明治に入ると桐野利秋と名を改めました。
 
 
そして、新政府の中で、彼は陸軍少将など重要な役職に配属されました。1873年には、熊本鎮台の司令長官と陸軍裁判所の所長を兼任するなど、出世コースを歩みます。
 
 
でも、そんな桐野の人生を大きく変える出来事が起こりました。
 
 
1873年10月、征韓論で敗れた西郷隆盛が明治政府の参議を辞め、鹿児島に下野したのです。それを知った桐野利秋は、すぐに辞表を出して、鹿児島の西郷の元に戻ったのでした。
 
 
このとき、西郷隆盛を慕って明治政府を去った薩摩の旧藩士が、たくさんいました。西郷隆盛の人望の厚さが分かるといわれる逸話の1つです。

 
 

西南戦争で西郷とともに散る

 

 
1874年、西郷隆盛は鹿児島に私学校を作ります。桐野は、そこで開墾事業にたずさわりました。
 
 
そして、1877年(明治10年)・・・
 
 
私学校を中心とした薩摩藩士と明治新政府の間で、大きな戦いが起こります。最後の士族の反乱と呼ばれる「西南戦争」です。
 
 
この戦争で、西郷隆盛は主導権を握らず、自分の命は若い士族たちに任せるという態度を取ったといわれます。
 
 
では、首謀者は誰だったのかというと、その中心人物が、主戦派の桐野利秋や篠原国幹だったのです。
 
 
特に、現代では「西南戦争は桐野利秋の戦いだった」という人も多いです。
 
 
しかし、主導権を握った割には、彼の戦略はずさんでした。
 
 
桐野利秋はとても人情深く、体格もよくて見栄えがし、常に見出しだ身を気にするオシャレさんで、めっぽう剣が強かった魅力的な人物でした。
 
 
そんな彼の弱点は、「学がない」ところだったのです。薩摩の下級武士に生まれ、その日食べていくのがやっとという育ちの中で、学問を身につけることができなかったのでした。
 
 
「志」は高くとも、戦術や戦略を練る智略に欠けていたのです。
 
 
桐野利秋は、城山で西郷隆盛が自決したその日に、戦闘中に銃で眉間を撃ち抜かれて戦士しました。享年40歳でした。

 
 

おわりに


桐野利秋には、人情深い逸話がいくつか残っています。
 
 
例えば、戊辰戦争で会津若松城を攻め落としたとき、新政府側の降伏式の大役は桐野が務めました。このとき彼は、会津藩主・松平容保や会津の藩士を想って涙を流し、彼らの処遇に配慮したことで知られています。容保はそれに感謝し、桐野に刀を贈りました。
 
 
西郷隆盛は、「もしも桐野に学があれば、自分を超えただろう」と言っていたそうです。
 
 
桐野が大村益次郎のような戦略を練れる人だったら、もしかしたら、西南戦争の戦況は変わっていたかもしれません。
 
 
でも、西郷隆盛がやる気がなさそうだったので、無理でしょうか・・・。

 
 
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