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こんにちは。
歴史ドラマでもたまに取り上げられる春日局。
彼女は2代将軍の長男・家光の乳母で、次男ばっかかわいがる正室のお江(江姫)と女の戦いを繰り広げたというちょっとコワイ逸話のある女性です。
でも、本当のところはどうだったんでしょうね。
今回は春日局の出自と功績、あまり知られていない3人の実の息子についてもお伝えします。
目次
春日局の生い立ち
春日局は、1579年、明智光秀の家来・斎藤利三と安(やす)との間に生まれました。
名前を福(ふく)といいます。
斎藤家は武家の名門だったので、幼い頃は姫として恵まれた暮らしをしていました。
1582年(天正十年)「本能寺の変」が起こるまでは・・・
福の父・斎藤利三は明智光秀にしたがって、本能寺で織田信長を討ちました。でも、そのわずか数日後、「山崎の戦い」で豊臣秀吉に破れてしまったのです。
福は母の実家・京へ逃げる途中、父が処刑される現場を目撃したそうです。このとき福は4歳、衝撃事件です!
彼女は、このときから謀反人の娘として生きなければならなくなったのでした。
母の実家のある京へ逃げた後は、母方の親類の三条西家(さんじょうにしけ)で育てられることになり、歌道や書道などさまざまな教養を身に付けることができました。
福が17歳のとき、縁談が持ち上がりました。相手は稲葉正成という人で3人の男の子が産まれます。でも、残念なことに夫は浮気性で無気力な生活を送るようになっていました。
何度も浮気をする夫に嫌気がさした福は、夫を捨て去り26歳のとき家光の乳母になろうと応募したのです。
彼女が女性の名誉職の乳母に選ばれた理由は、父の斎藤利三が勇猛で知られた武将だったからといわれます。また、天海(明智光秀と同一人物説がある)の口添えがあったからという説もありますよ。
そうして彼女は将軍の嫡男の乳母に抜擢され、その養育に励んだのでした。
彼女は51歳のとき、朝廷から「春日局(かすがのつぼね)」という称号と従二位(じゅにい)というかなり高い位までいただきました。これはすごい「誉れ」ですよ。
その後は、孫や曾孫の世話をしながら余生を送り、64歳のとき病気で生涯を閉じました。
嫡男・家光に尽くした人生
春日局が養育することになった竹千代(後の家光)は、食が細く病弱で吃音症でどもり気味、内気で人前に出る事を好まない子でした。
一方、家光の弟の国松(後の忠長)は丈夫で活発、利発で容姿もよい子でした。
なんだか分かりやすい対比ですが、予想通り両親の徳川秀忠とお江(江姫)は次男を溺愛するようになりました。そのうち、次の将軍は忠長だという声が江戸城の家臣たちの中からも聞こえるようになったのです。
春日局はこの状況はまずいと感じ、大胆にも大御所の徳川家康に直訴(じきそ)したと伝わります。
彼女はお伊勢参りと見せかけて駿府城(静岡)の家康の所へ行き、次期将軍は家光にしてほしいと直接交渉したらしいのです。
でも、彼女のこの行動は本当かどうかはわかりません。本当にそんな大それたことできたのかとも思いますし、もし聞いたとしても家康がそんな事だけで判断するはずがありません。
ただ、彼女がそれほど家光のことを想っていたというのは確かでしょう。
最終的に、家康は長男相続をここで徹底させ、それを1つの秩序として前例を作るために家光を次期将軍に選びました。
そうして、とりあえず家光は無事に次期将軍と認定されたのでした。
家光は男にしか興味がなかった!?
世継ぎ問題は一段落しましたが、家光が成人するとまたまた春日局の頭を悩ます問題が起こりました。
家光は正室の鷹司孝子と相性が悪く、まったく会おうとしなかったのです。
それどころか、彼は幼いころから化粧や女装をするのが好きで、男性にしか興味が持てなかったといわれます。
当時の武家の男子には珍しいことではありませんが、女性がまったくダメというのは世継ぎを残さなければいけない将軍の場合、一大事です。
春日局は徳川将軍家の血を絶やさぬように、家光好みの女性を探しに走り回りました。
そして、後宮にいろんなタイプを美女を集めたのです。それがあの有名な江戸城「大奥」になったのでした。
もともと「大奥」と呼ばれる場所は、家康のころから江戸城の一角にあったのです。でも、それを、徳川の血筋を守るための組織として整備したのは春日局でした。
そのうち家光は、尼僧の恰好をした女性に興味を持ち、女性もいけるようになりました。男装っぽいコスプレに萌えたようです。
そうして、側室との間に4代将軍となる嫡男が誕生したのでした。やれやれですね。
春日局の実子はどうなった?
家光の乳母となった春日局ですが、3人の実子はどうなったのでしょう?
それぞれ、徳川家のために働いているんですよ。
長男・稲葉正勝(まさかつ)
春日局の長男の稲葉正勝は、稲葉正成にとっては3男でしたが、母が大出世したことから稲葉家の家督を継ぎました。
彼は思慮深い性格で、家光にも気に入られ、将軍直属の「 書院番(しょいんばん) 」に任命されました。
さらに、20代で老中に命じられて出世コースを歩み、小田原藩8万5千石の大名になりましたが、38歳の若さで病死してしまったのです。
息子の稲葉正則(まさのり)は、母も亡くしていたので、祖母・春日局が育てました。
この長男の家系は、山城淀家として明治まで続きます。
次男・稲葉正定(まささだ)
稲葉正定は、春日局の次男です。
彼は家光ではなく、家康の9男・徳川義直に仕えました。徳川義直は、御三家の1つ尾張徳川家の祖となっています。
三男・稲葉正利(まさとし)
稲葉正利は、春日局の3男です。
彼は家光の弟の徳川忠長(とくがわただなが)に仕えました。
ところが、忠長は奇行が重なり、改易・徐封されることになり、後に自害を命じられました。そのとき家臣も連座して処分を受けたのです。
正利も処分されるところでしたが、病床にあった兄の正勝が最後の願いとして助命嘆願し、細川忠利のもとに預けられることに決待ったのです。
細川忠利は正勝の親友で、春日局とは縁戚関係でした。
でも、命は救われたものの長い軟禁状態が続いた正利は、無念の生涯わ送ったのでした。
春日局の簡単年表
・1579年(1歳)
斎藤利三の娘として美濃国で誕生。
名前は斎藤福(さいとうふく)
・1582年(4歳)
「本能寺の変」
→明智光秀に従い織田信長を討った父が斬首に。
・1598年(20歳)
養父・稲葉重通が病没。
・1600年(22歳)
「関が原の戦い」
・1604年(26歳)
家光の乳母に任命される。
・1623年(45歳)
家光が3代将軍に就任。
・1626年(48歳)
お江の方が病没。
・1629年(51歳)
朝廷から「春日局」の名号を賜る。
・1634年(56歳)
長男・稲葉正勝が死没。
・1635年(57歳)
曾孫・堀田正俊を養子に。
・1643年(64歳)
江戸で病没。
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