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こんにちは!
 
今回は、1978年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃事件について!
 
 
この事件が「フランス革命始まり」とされますが、一体なんで?と思う事件でもあります。
 
 
なぜなら、バスティーユ牢獄襲撃で解放された囚人はたった7人、それも内訳が精神障害者2名、文書偽造犯4名、変態貴族1名(家族の依頼で収容していた)だけだったからです。
 
 
それでも、この襲撃事件がフランスに与えた影響は、計り知れないものでした。
 
 
『ベルばら』では、ここでオスカル様が銃弾に倒れていますからね。
 
 
バスティーユ牢獄に白旗が揚がったのを見て亡くなる(アニメはちょっと違う)という象徴的なシーンなのです。

 
 

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◆民衆はなぜ武器を持っていた?

 

 
バスティーユ牢獄は、フランス軍とスイスの傭兵隊が守っていました。いくら民衆が大勢で詰めかけたとしても、丸腰でかなう相手ではありません。
 
 
それに、バスティーユ牢獄はもともとシャルル5世の治世下に建てられた要塞だったので、護りは強固です。
 
 
実は、民衆はバスティーユ牢獄を襲撃する前に、武器を仕入れに別の場所を襲っていたのでした。だから、しっかり武装して襲っていたのです。
 
 
その武器を仕入れに行った場所は廃兵院(オテル・ザ・アンヴァリッド)と呼ばれる所で、傷病兵が暮らす施設だったのです。
 
 
軍の施設だから武器は大量にありますし、防備は手薄ということで、襲撃するには絶好の場所だったのです。
 
 
そして、暴徒と化した多数の民衆は、廃兵院で3万丁もの銃と弾薬を奪ったのです。
 
 
廃兵院で奪った武器を使って、次にバスティーユ牢獄を襲撃したのでした。
 
 
もう、このころからフランス革命末期までの民衆は、暴徒というより鬼畜のようです。恐ろしい集団心理が働いています。
 
 
これ以降どんどん過激になり、そんなにも血が見たいのかと言いたくなるほどのジェノサイドにエスカレートしていくのでした。

 
 

◆なぜ襲う場所を「バスティーユ牢獄」に決めたの?

 

【出典元:Wikipedia】

 
先程述べたように、当時のバスティーユ牢獄には、囚人がたった7人しかおらず、その中に政治犯は1人もいませんでした。
 
 
じゃあ、なんでここを襲ったの?と言いたくなりますが、別に間違えたわけではなく、民衆は明確にここを襲撃したかったのです。
 
 
その理由は、確かに政治犯が収容されていた前例があったのと、この建物自体が旧体制(アンシャン・レジーム)支配の象徴と見られていたからです。
 
 
王政の象徴たる建物を陥落させるということに意義があったのです。
 
 
そして、もう1つの目的は、またまた武器の奪取だったようですよ。
凶暴な暴徒集団が、またまた大量の武器を仕入れてしまったのです。

 
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◆バスティーユ牢獄襲撃事件の背景

 

【出典元:Wikipedia】

 
バスティーユ牢獄の襲撃は、民衆のマグマのようにぐつぐつ煮えたぎっていた怒りが爆発した事件でした。
 
 
事件自体の被害は大したことはなかったのですが、民衆、王政ともに与えた影響は大きかったのです。
 
 
その背景は、三部会の開催にさかのぼります。
 
 
1789年5月5日、175年ぶりに平民(第三身分)を加えた三部会が開かれました。
 
 
でも、審議内容は特権階級に有利なものばかりで、民衆(第三身分)はガガーンと失望してしまったのです。
 
 
怒った民衆は、6月17日に国民議会という集会を勝手に開き、この集まりに「他の2身分も合流して!」と呼びかけました。
 
 
それに対抗して、王弟アルトワ伯「議場閉鎖」という強硬策にでます。マリーアントワネットはこれに大賛成、ルイ16世は反対しましたが、彼に止める力はもうありませんでした。
 
 
この結果、議場から締め出された第3身分代表たちは、6月29日に議場に隣接する球戯場で「憲法制定まで何があっても会議を解散せずに継続するぞ!」と誓いあったのでした。それが「球戯場の誓い」と呼ばれるものです。(7月9日には国民議会は憲法制定議会と改称)
 
 
ここまでの流れでは、特権階級VS平民(民衆)が「議会」という話し合いの中でなんとか改革を進めようとしていたと分かります。
 
 
でも、こんな緊張状態の中、国王政府は1789年の7月11日に、2万もの兵をパリに集結させて、その武力を背景に、財務総監ジャック・ネッケルを罷免したのです。
 
 
ネッケルは平民出身の財務総監で、民衆の期待を背負い、特権階級と戦っていました。
 
 
「パリに2万の大軍」「ネッケル罷免」の報を受け、民衆の怒りは、とうとう大爆発したのです。

 
 

◆おわりに


バスティーユ牢獄自体、その当時は、ほとんど使われていない牢獄で、変態や大した罪のない人が7人収容されていただけでした。
 
 
それでも、この牢獄の歴史的な意義や、旧体制(アンシャン・レジーム)支配の象徴だったところから、大きなインパクトを与えたのです。
 
 
武器を手にした民衆は暴徒化し、これ以降、血みどろの革命へと突き進んでいったのでした。

 
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