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こんにちは。
 
 
島津斉興(なりおき)と2人の息子・斉彬(なりあきら)・久光の関係を追っていると、親子関係・兄弟関係は、今も昔も変わらないなあとつくづく思います。この親子の間には、その前の斉興の祖父(斉彬の曾祖父)・重豪(しげひで)との関係が、深い深い影を落としているのです。
 
 
ひいおじいちゃんっこの斉彬を疎ましく思い、愛する側室の子をかわいがる父親の気持ちは、自然な感情なのかもしれません。
 
 
実は、私はかなりのおじいちゃんっこでした。近所に住んでいた祖父(母の父)の家に入り浸っていて、子供のころの父の記憶はほぼありません。ちなみに、両親の夫婦仲は最悪でした。
 
 
それで、今でも父のことは隣のおじさんぐらいにしか思えないのです。(嫌うほど関心がないので、仲悪くはありません。お正月とお盆だけ、義務だと思って会ってます)父は父で、上の娘を大嫌いな舅に奪われたので、2人目の娘(6歳下の妹)は、舅宅に寄りつかせず、手元でかわいがって育てました。
 
 
斉興と斉彬の仲の悪さは、斉興とその祖父・重豪の関係を抜きにしては語れません。
 
 
ですから、まずは、島津重豪(しげひで)がどんなじいさんだったのか、お伝えしましょう。

 
 

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行動力抜群・精力抜群の「蘭癖藩主」

 

 
島津重豪(しげひで)は、その当時、有名なスーパー蘭癖大名で、隠居した後も、息子にも孫にも実権を譲らず君臨し続けました。まるで院政時代の後白河法皇のようです。
 
 
彼は、すごく賢くて行動力も抜群だったのですが、どんどん外国のものを取り入れていったため、藩の財政は破綻していきました。そして、財政には関心がなかったので、子や孫に丸投げでした。
 
 
めっちゃすごいけど、めちゃくちゃ自己中な権力者です。でも、人脈作りも抜群にうまかったので、息子も孫も勝てなかったのです。
 
 
息子の斉宣は、父と対決して負け、影が薄いまま隠居に追い込まれてしまいました。その後を継いだのが、孫の斉興です。
 
 
斉興は、父と祖父の権力争いを、見てきた人なんですね。そして、父が負けてしまったという・・・。
 
 
重豪じいちゃんは、とっくに隠居の身なのに、18歳の若き斉興が藩主になっても、がっつり権力を握り続けたのでした。すごいじじいです。孫なんてどうにでもなるわいという感じだったのでしょう。
 
 
重豪は、大酒飲みで60代で子供を作るぐらいの精力抜群なじいさんでしたが、それでももう年寄りです。
 
 
斉興にしてみれば、もう少し待てばくたばるかと期待していたでしょう。
 
 
でも、ここで重豪は、なんと自分のDNAを濃く受け継ぐ後継者を見つけてしまったのです。
 
 
そう、それが、曾孫の島津斉彬でした。

 

 

曾孫・斉彬の才能を見出し、西洋文化を叩き込んだ

 

 
重豪は、教養のある母・周子(弥姫)から英才教育を受けていた聡明な斉彬に、ビビッと何かを感じたのでしょう。彼は、斉彬にオランダ語や中国語、外国の事物について、たくさん教え込みました。
 
 
シーボルトに会うときに、斉彬を同伴したのは、よく知られています。ちなみに、そのとき重豪は80歳を超えていましたが、60ぐらいにしか見えなかったそうです。とにかく元気なじいさんで、89歳で大往生というご長寿でした。
 
 
斉興にしてみれば、気味が悪かったでしょうね。斉彬の母は斉興の正室でしたが、斉興とは全く仲良くなかったようです。
 
 
斉興にとって斉彬は、好きでもない女の息子で、さっさとくたばってほしい祖父からがっつり教育を受けた人物なのでした。
 
 
当時の結婚は家同士の決め事ですが、側室はある程度自分の好みで選べました。由羅は、斉興が最も愛した女性です。彼女の息子の久光のほうがずーーーっと可愛かったのは、当然でしょう。
 
 
それに、あまり知られていませんが、久光も英才教育を受けたかなりの努力家で、この時代の重要人物だったのは間違いありません。(こういうこと言うと、西郷崇拝者に笑い飛ばされそうですけど)
 
 
もちろん、斉興は私的な好き嫌いだけでなく、藩主として藩の先行きを考えても、蘭癖で浪費ばかりしていた(ように見えた)重豪の秘蔵っ子・斉彬に藩政を任せるのは危険だと考えたでしょう。
 
 
折角、調所広郷の努力が実を結び、財政再建のめどが立ち始めたのです。また祖父の時代のように財政破綻しては大変です。
 
 
それに、これも都合が悪いので伏せられることが多いですが、斉興も理化学の研究には熱心な藩主で、大砲の実験なども行っていました。

 
 

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おわりに


西郷隆盛の人気は高く、国民的ヒーローのようです。
判官贔屓ですね。
 
 
けなしたら怒られそうな雰囲気なのですが、ちょっと持ち上げすぎなんじゃないのと思ってしまいます。
 
 
前にも書きましたが、私は政治家としては大久保利通のほうがずっと優れていたと思います。
 
 
でも、幕末の薩摩藩士の人間像は、そんな絶対ヒーロー・西郷隆盛目線で描かれることがほとんどです。
 
 
西郷隆盛が嫌っていた由羅や久光はもちろん悪者、大久保利通も征韓論で、幼なじみの西郷を裏切ったという印象を受けがちです。
 
 
一方、西郷隆盛が敬愛してやまなかった斉彬は、まさに「賢侯」です。斉興は人格者だった息子・斉彬を疎み、側室の子をかわいがる短慮な父として描かれることが多いです。
 
 
なんたって斉彬様は、渡辺謙だしー!
吉之助(西郷)よりずっと存在感あるし、主役級じゃないかー!
かっこよかったです^^♪
 
 
でも、斉興から見た実際の斉彬は、「猜疑心が強く、小賢しい、騒動を好む」人物だったようですよ。斉彬の幕府工作で、腹心の調所広郷が自害し、自分は隠居に追い込まれたのですから、憎しみも深かったでしょう。
 
 
調所広郷の藩政改革はすごいと思う★密貿易で失脚した薩摩の汚れ役
 
 
当時の島津家は、なんだか愛憎渦巻いていて怖いですね。
 
 
斉彬の息子たちは、ことごとく幼いころに死んでいますし、斉彬も突然死しています。どう考えても、息子の全滅は妙な感じがします。(女の子は3人生き残りました)
 
 
息子は、少なくとも6人夭逝しています。でも、真相は藪の中なので、せいぜい「呪い」のせいにしておくのが無難ですね。
 
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