スポンサーリンク

この記事を読むのに必要な時間は約 10 分です。


こんにちは。
 
幕末の薩摩藩は、優秀な人材がたくさん登場します。
 
 
中でも第11代薩摩藩主・島津斉彬は、大きなよく通る声をした立派な体格の人でした。彼は大変賢く先見の明があり、英明君主と称えられています。
 
 
でも、私はひねくれ者なので、そんな人気者よりその影に隠れた次の権力者・島津久光のほうが、ずっとずっと興味があるのです。
 
 
島津久光は、おそらく兄との対比のために、本やドラマで、マザコンで思慮が浅いキャラに描かれることが多いです。残念ですね。(西郷隆盛と仲が悪かったのも影響しているでしょう)
 
 
今回の大河は、ちょっと違う切り口で描いていただきたいなーと、注目しています。

 
 

(1)兄・斉彬の死後、薩摩藩の最高権力者になる

 

 
江戸の幕府の重鎮とも親しかったインテリカリスマ藩主・斉彬は、父の斉興と不仲だったことから、藩主になったのは43歳のときでした。
 
 
斉彬は、藩主に就任すると「集成館事業」など精力的に薩摩の近代化に努めましたが、50歳(満49歳)で急逝してしまいました。阿部正弘亡き後、大老に就任した井伊直弼に抗議し、上京するため兵の訓練をしていた最中に倒れたのです。
 
 
彼の死因は、病死とされていましたが特定されず、今では父による暗殺説なども有力と考えられています。
 
 
そのカリスマ藩主の次に実権を握ったのが、今回の主役・島津久光でした。
 
 
斉彬の次の薩摩藩主は、久光の息子・忠義(斉彬の養子になっていた)に決まっていました。斉彬の実子は男子はすべて幼いころに亡くなってしまったので、弟の子を養子にしていたのです。でも忠義はまだ若かった(19歳)ため、その実父の久光が実権を握ることになりました。
 
 
もともと久光は、「お由羅騒動」で敵対勢力に持ち上げられていた側室の子(異母弟)でした。斉興は由羅をたいへん愛し、その子の久光をかわいがていました。
 
 
島津家の跡目争い「お由羅騒動」では多くの斉彬派の藩士が粛清されたので、西郷隆盛のように、まだ敵意を持つ者もたくさんいたでしょう。苦労が多かったと思いますよ。
 
 
彼は、幕末の薩摩藩の最後の実力者でしたが、嫡流でなかったため、藩主の座に就けませんでした。そして、何かにつけ、やはり英明な斉彬と比べられたようです。
 
 
こんな環境では、兄に対してコンプレックスを持つのも、当然です。それでも、久光はこの難しい時代の藩のかじ取りに、一所懸命務めたのでした。

 
 

(2)「国学」の英才教育を受けた保守的エリート

 

 
島津久光は、兄の斉彬と違って、父・斉興に溺愛され、薩摩で高い教育を受けています。けっして無能ではなく、特に「国学」に秀でたエリートでした。そして、頑固で保守的な性格をしていましたが、統治者としては堂々とした人物だったといわれます。
 
 
「蘭学」を学んで外国に目を向けていた斉彬とは視点が反対ですが、兄弟仲は悪くなかったようですよ。
 
 
薩摩藩は、長州藩とともに倒幕運動の中心となる藩ですが、久光は、幕府を倒そうとは考えておらず、あくまで「公武一体」、「天皇中心の日本」を作ろうと考えていたのでした。

 
 

スポンサーリンク

(2)「公武合体」のため兵を率いて上京

 

 
斉彬が果たせなかった「率兵上京計画」を、久光は実行に移せました。やはり、彼には多大きな野心があったのでしょう。
 
 
彼が上京しようと決断したのには、大久保利通ら「精忠組」の影響が大きかったと思われます。下級武士たちの幕藩体制を変えたいという熱意を、もう抑えきれなかったのです。
 
 
まず、彼は上京を成功させるために、父・斉興の時代から藩政の中心にいた上層部の人事改革に取り組みました。当時の藩上層部は、すごく保守的で、久光の上京に反対するのは目に見えていました。久光は彼らを遠ざけ、小松帯刀、大久保利通など、若手の逸材を重用していったのでした。
 
 
そして、大久保はこの機をとらえて、久光に奄美大島に身を隠している西郷隆盛を呼び寄せるよう嘆願しました。西郷が薩摩に帰還できたのは、このときです。
 
 
久光は、自分に斉彬ほどの人望がないのは分かっていたのでしょう。彼は、上京の理由を「遺言により順聖公(斉彬)の意志を継ぐもの」と宣言しています。英雄だった斉彬の意志を継ぐということで、藩内をまとめようとしたのです。
 
 
でも、実はこれは、人心を得るための口実だったのではないかと考えられています。なぜなら、斉彬の元重臣や西郷隆盛は、久光が上京することに反対しているからです。
 
 
それでも、久光は、自分の幕政デビューとなるこの上京を、なんとかして成功させたかったのでしょう。

 
 

(3)「生麦事件」と「薩英戦争」

 

 
1862年、江戸から薩摩へ戻る途中、横浜で「生麦事件」が起こりました。
 
 
イギリス人商人4人が、島津久光の大名行列を妨げたかどで、無礼打ちされた事件です。(死者1名、負傷者2名)
 
 
イギリスは幕府に対して賠償請求を、薩摩藩に対しては賠償請求と犯人の処刑を求めました。
 
 
薩摩藩は、あくまでイギリス人の無礼が原因とし、請求に応じなかったことから、「薩英戦争」に発展してしまいます。
 
 
実は、この戦争の和睦交渉で、薩摩の若き外交官たちが大活躍して、敵国だったはずのイギリスと親密な関係を結ぶことに成功するのです。
 
 
ですから、薩摩にとって全く悪い出来事でもなかったのですが、「生麦事件」の当事者ということで、久光の印象は、なぜかあまりよくありません。
 
【関連記事】

   ↓
寺島宗則(松木弘安)・集成館事業を牽引し外交官として生きた薩摩きっての秀才
 
 
島津斉彬がよく分かる5つの特徴★江戸育ちの蘭癖が父との確執を招いた?
 

 

(4)廃藩置県でやけになって花火を打ち上げた?

 

 
久光が思い描いた「公武合体」は実現することなく、倒幕へと時代は進みました。
 
 
戊辰戦争を経て、明治新政府ができると、政府は、「廃藩置県」・「廃刀令」などを制定し、日本の近代化を押し進めました。
 
 
明治政府の参議は、かつて久光の家臣だった下級武士の大久保利通や海江田信義などです。主従の立場が逆転してしまったんですよ。これは、哀しいです。
 
 
もともと保守的な気質の久光は、かつて自分が重用してきた大久保に失望し、新政府の言う事をなかなか聞き入れません。駄々っ子みたいな対応ですが、それも彼の心情を考えると仕方がないとも思えます。
 
 
1871年に「廃藩置県」が強行された日には、久光はブッちぎれて、抗議のために屋敷の庭で夜通し「打ち上げ花火」を連発したそうです。
 
 
元藩主にこんなことをされては面目が立たないので、大久保たちはなんとかなだめようとしましたが、久光の怒りはおさまりませんでした。鎌倉時代から島津家の先祖が勝ち取り守ってきた薩摩の領土を、無理やり奪い取られたのですから、仕方がないでしょう。
 
 
でも、久光は幕末の功労者だったので、新政府も表だって罰することはありませんでした。
 
 
彼は、最期まで幕藩体制の維持を夢見ていたのす。「廃刀令」がくだってからも、けっして刀を離さず、71歳で亡くなるまで髷(まげ)を結っていたそうですよ。

 
 

スポンサーリンク