この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。


空海と並び称される日本に仏教を広めた最澄
公費で遣唐使に選ばれ、比叡山延暦寺を開いたという栄光の人生のようですが、彼の後半生は仏教界の旧勢力との戦いの日々でした。
 
 
今回は、そんな最澄の一生をさらっとおさらいします。
 
 
空海についてはコチラをどうぞ♪
     ↓ 

マルチな天才で協調性もあり!強運でもあったスーパー僧侶「空海」
 
 

スポンサーリンク

◆最澄はいつどこで生まれた?

 

 
最澄は、767年、近江国(滋賀県)の生まれました。幼名は広野といいます。
 
 
彼は4歳で得度し、法名を最澄としました。 そして、19歳のとき東大寺で「受戒」し、比叡山に登って修行しました。その修行は12年にも及びます。(「得度」「受戒」というのは後で出てきますよ)
 
 
転機が訪れたのは最澄31歳のとき、桓武天皇に見いだされて、内供奉(ないぐぶ)という役に任じられたのです。
 
 
最澄が生まれた頃、都はまだ奈良にありましたが、794年、桓武天皇が奈良から京都に遷都します。その大きな目的は政教分離でした。
 
 
当時の奈良の仏教勢力と貴族は、利害関係が絡み合っていて、政治に僧侶が口出しすることが多かったのです。
 
 
桓武天皇は、政治と仏教を切り離したかったのですが、仏教の力は重んじていました。
 
 
当時、力のある僧というのは、祈祷で病気を治したり、呪詛を跳ね飛ばして国家を護るという陰陽師のような呪術師のような力があると思われていたのです。
 
 
なので、神仏のご加護で都を守りたいと願う気持ちは、桓武天皇ももちろん持っていたわけでした。
 
 
そうして、桓武天皇は、当時の優れた僧・最澄に遣唐使として唐で学ぶように命じたのです。

 

 

◆パトロン桓武天皇★最澄を唐に派遣する

 

 
804年、桓武天皇は、最澄を唐へ送り出します。彼の修行していた天台宗を極めるためです。最澄38歳のときでした。
 
 
勅命で参加した最澄とは異なり、このとき私費で参加した1人の若き学僧がいました。それが31歳の空海です。このとき最澄は勅使のような立場で、空海は名もない一介の若年僧に過ぎませんでした。
 
 
天皇の命で公費留学した最澄は、早く戻って仏教を広めてほしいと桓武天皇が待っていたので、1年で帰国しなければなりませんでした。
 
 
最澄は天台宗の奥義をマスターした後に「密教」を学びますが、時間が足らず不完全な理解のまま帰国するしかなかったのです。

 
 

スポンサーリンク

◆帰国した最澄・天台宗を広める

 

 
日本に帰った最澄は、天台宗を広めるために、仏教界の制度の改正を試みました。
 
 
当時、僧侶が一人前になるために、2つの試験のようなものがあったのです。
 
 
それが、「得度(とくど)」と「受戒」です。
 
 
「得度」は僧になるための1次試験のようなもので、「受戒」は2次面接のようなものでした。
 
 
得度者は、各宗派によって定員が設けられていました。最澄は後ろ盾が桓武天皇だったこともあり、これはなんなくクリアできて、年に2名の得度者枠をゲットしました。
 
 
そうして、次の「受戒」に進みます。受戒は「戒壇」という儀式の場で行われました。最澄は、天台宗専用の戒壇を設けることを希望しました。
 
 
当時、戒壇は東大寺のみに設けられていました。最澄も、若い頃そこで受戒しています。天台宗は奈良の南都六宗とは異なる大乗仏教なので、最澄は南都六宗の東大寺での受戒を嫌がったのです。
 
 
「戒壇があるのは東大寺だけ」というのは、南都六宗の僧侶たちからすると、ステータスのようなものでした。そのため、南都六宗の僧侶たちは、最澄の提案に大反対します。
 
 
最澄にとって不運なのは、806年に桓武天皇が亡くなってしまった事でした。
 
 
後ろ盾を失った最澄の立場は急激に弱まり、比叡山に戒壇を設ける望みはなくなったのです。

 
 

◆南都六宗と完全対立!柔軟性なさすぎで弟子が路頭に迷う?

 

 
奈良の仏教勢力・南都六宗と最澄の論争は、これから5年以上、最澄が亡くなるころまで続きます。
 
 
その間、天台宗の僧侶たちは、「受戒」を受けられないまま、つまり正式な僧侶になれないままの状態だったのです。
 
 
もう少し弟子のことを考えて政治的な頭の使い方ができなかったのかなと思いますが、生真面目だったのでしょう。頭の固い秀才です。その辺りが、空海と対照的で面白いです。
 
 
南都六宗と争いながら、空海に密教の経典を貸してと言って拒絶され、絶交もしていますよ。空海が怒るのももっともだなと思うのですが、そんなこんなで敵を作りやすい人だったのでしょう。
 
 
弟子たちにとっては、死活問題です。一人、また一人と弟子が去っていき、とうとう、一番弟子が空海の弟子になるという残念なことになりました。
 
 
そうして、失意のまま、最澄は822年に亡くなりました。

 
 

◆死後7日目に比叡山に戒壇設立許可が下りる

 

 
後半生は、いろいろ問題が多くうまくいかなかった最澄ですが、なんと、亡くなってからわずか1週間後、彼の悲願だった天台宗の総本山・比叡山に戒壇が設立されました。
 
 
できればあと少し早かったら・・・
手放しで喜べない残念感がありますが、とにかくこれで天台宗の弟子たちが、正式に「僧侶」として認められるようになったのです。
 
 
突然、認められた背景には、最澄を支援する藤原冬嗣(ふゆつぐ)という人の協力があったのでした。結局、パトロンになる人がいなければ、どうにもならなかったというわけです。

 
 

◆おわりに


比叡山延暦寺は、その後、日本の最高の頭脳たちが集まって修行した場、今でいう総合大学のようなものになりました。
 
 
そして、天台宗の誰でも悟りを開けるという教えは、後の浄土信仰の礎になり、鎌倉仏教の開祖たちも、ここで修行し誕生したのです。
 
 
純粋で真面目な努力型の秀才だった最澄、彼の開いた天台宗は、その弟子たちによって広められ、その後大きな影響力を持っていきました。
 
 
次回は、天台宗、真言宗、南都六宗の関係について、お伝えします。
空海と最澄の性格の違いが出て、おもしろいです♪

  ↓
空海と最澄★南都六宗との関係が対照的で面白い
 
【関連記事】
   ↓


 

 
 

スポンサーリンク