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同じ年の遣唐使として、唐に渡って仏教を学んだ空海と最澄。
でも、彼らは同じ船に乗っていたわけではありません。この年派遣された遣唐使の船は4隻、そのうちの別々の船に乗っていました。
特待エリートの最澄は、きっと一番よい船に乗っていたのでしょう。私費で乗り込んだ空海とは、天と地ほどの待遇の差だったはずです。
でも、2人とも仏教を日本に普及させて、よりよい国家を作るために尽力しようという志は同じでした。何かと比べられるこの2人、始めは友好的だったのですが、後にケンカ別れしてしまいます。
その原因は、どちらかが悪かったというのではなく、目指すものが違ったから、仕方のないことだったのです。
◆ 時代の最先端は「密教」だった
桓武天皇の希望の星だった最澄は、天台宗を習得して1年後に帰国しました。そうするうちに、桓武天皇が病に倒れていまいました。最澄は、このとき仏のご加護でなんとか天皇を救おうとしたのです。
当時、力の在る高僧は、神仏の力で病を治せると考えられていたのですよ。そんなあほなと思いますが、めっちゃ賢い最澄でさえそう思っていました。自分が桓武天皇の病を治せないのは、自分に僧としての力が足りないんだと。
最澄は、唐で学ぶ期間が短かったので、天台宗を習得したあと密教を学んでいる途中に、日本に帰らなければならなかったのです。そう、エリート留学生だった彼は、「密教」を学ぶ時間がなかったのです。
そして、日本は、最先端の「密教」を求める時代に入っていました。
桓武天皇の後、天皇になった(平城天皇の後)嵯峨天皇は、「これからは密教だ!」という考えの持ち主でした。そうして、彼は密教マスターの空海を見出します。
ここにきて、ただの若年僧だった空海は、三段跳びで最澄と肩を並べるトップエリート僧にグレードアップできたのでした。
◆ エリート最澄が空海に弟子入り
日本に帰った空海は、またたくまに嵯峨天皇という強力な後ろ盾を得て、活動の場を広めました。嵯峨天皇は、かなり空海を気に入ったらしく、高野山や東寺をぽんぽん気前よくプレゼントしています。
もちろん、空海の今後の密教普及の活躍を期待してのことですけど。
そう、空海は、最澄が喉から手が出るほどほしい「密教」の経典を、わんさか持って帰国していたのです。
最澄は、そんな空海に経典を「貸してほしい」と頭を下げました。自分のほうがずっとエリートで年長です。それでも、自分に足りない知識を得るために必要ならと誠実な態度をとったのです。
空海も、「それなら喜んで」と経典を貸してあげました。経典といっても、莫大な量です。何度も何度も貸し借りが繰り返されました。
最澄は忙しい立場だったので、しょっちゅう比叡山から離れることができません。それで、最澄の弟子を介して密教の経典の貸し借りをしていたのです。10年ほど、そのような関係が続きました。
◆ 空海と最澄・ついに絶縁する
あるとき、最澄がいつものように空海に「理趣経」の注釈書「理趣釈経」を借してほしいと頼んだところ、空海から断りの手紙が届きました。
空海にとって「密教」の奥義は、経典を読むだけで習得できるような薄っぺらいものではありませんでした。ただ読んで理解しようとする最澄の態度は、「密教」を軽視していると思ったのでしょう。
確かに、そのとおりだったのです。経典を集めて仏教を体系化し、経典図書館(のようなもの)を作りたかった最澄にとって、「密教」は多くの経典のうちの1つでしかなかったのでした。
空海は、「密教は体験を通してしか、理解することができないものです。学びたいならしっかり教えるので3年高野山で修行してください。マンツーマンで教えます」と、丁寧に手紙にしたためたのでした。
「密教」の最も肝心な部分・奥義は、師から弟子に直接口頭で伝えられるものであって、それらは経典や解説書には記されていないものなのです。「そんな軽く考えんといて!」と、ちょっとムカついているのが伝わります。
でも、最澄は立場的にとても忙しく、高野山で何年も修行なんてできるわけがありません。すでに、この当時、戒壇設置をめぐって奈良仏教・南都六宗と論戦中でした。
空海もそのことはもちろん知っていたはず、つまり、空海はやんわりと断ったのでした。
空海にしてみれば、最澄は先輩でとても真面目で尊敬できる僧侶だったでしょう。でも、「密教」の経典を軽視する最澄の考えは許せなかったのです。
一方、最澄は「密教」もその他の経典と同様、文献を読んで習得できるはずと考えていました。
ここの考え方に、ズレがあったんですね。でも、それは「密教」をどう捉えるかの核心部分なので、妥協はできません。
空海の「密教」は、身・口・意が三位一体となって、口伝で秘密の印を結び、真言を唱えて、大日如来のビジョンを見るというものです。そのためには、マンツーマンで師から弟子に直接伝えなくてはならないものでした。
実は、断られてからも、最澄はたびたび「貸して~」と弟子を向かわせています。空海は「またかいな」と思いながら、何度も丁重にお断りの手紙をしたためました。
それじゃあ仕方がない、自分は忙しい身だから代わりにといって、最澄は一番弟子の泰範を、高野山に送り込んできたのでした。
ところが、その泰範は、それっきり比叡山に戻ってくることはなかったのです。なんと!泰範は、そのまま空海の弟子になってしまったのです。
これには最澄も呆然です。
泰範は、最澄が自分の後継者にしようと、特別目をかけていた一番弟子だったからです。一番弟子を奪われた、というか、弟子がカリスマ空海の魅力にやられて、自分に見切りをつけたという・・・哀れですね。
最澄は、その後も何度も泰範に戻ってくるように手紙を送りますが、泰範が比叡山に戻ることはありませんでした。
ま、南都六宗とのいざこざも続いていて、最澄の元にいても正式な僧侶になる道が見えなかった時期なので、それも仕方がないでしょう。
それでも、それだけ目をかけられてたのに空海に乗り換えるとは、やっぱり空海はカリスマ教祖様なのかなと思えます。
結局、そんなこんなで、空海と最澄の関係は悪化して絶縁してしまったのでした。
◆ おわりに
仏教を体系化し経典図書館のある総合大学のようなものを作ろうとした最澄。
「密教」一筋で、その専門性を凝縮させ極めようとした空海。
2人は、目指したものが違ったため、絶縁してしまいました、どちらも天才で、どちらも仏教普及に尽力していました。
でも、私はどっちかというと、空海びいきです。そうならないように記事を書いたつもりなんですが、にじみ出てるかも・・・。
「曼陀羅」と「般若心経」の「空」の教えに興味があるので、春になったら嵯峨天皇の大覚寺に「写経」に行こうと思いました。
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