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平安時代、同時期に遣唐使の船に乗って、唐で仏教を学び日本に広めた2人の高僧がいました。
 
 
空海と最澄
 
 
空海は真言宗、最澄は天台宗の開祖です。
 
 
この2人は、同時期に日本に仏教を広めた高僧として、よく比較されます。それもそのはずで、修行の仕方や仏教の広め方が、とても対照的で興味深いのです。
 
 
京都のガイドブックを読むと、上手に対比させて書かれているものがあります。なるほど!と思えるほど対照的で面白いです。

 
 

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◆ 空海と最澄

 

 
804年の遣唐使の派遣、それは、日本の仏教界にとって、大きな意味を持つものでした。なぜなら、その船に38歳の最澄と31歳の空海が乗っていたからです。
 
 
最澄は桓武天皇の勅命を帯びた公費留学生、一方の空海は私費で参加した一介の若年僧でしかありませんでした。
 
 
桓武天皇に「早く帰って仏教伝えて」と待たれていた最澄は、1年で帰国します。空海はというと、期待されてないこともあって、唐でいいお師匠さんを見つけ、のびのびと「密教」を極めることができました。
 
 
彼は、仏教の経典の言葉、インドのサンスクリット語をあっという間にマスターして、その上、「密教」をたった2年で完全にマスターしたのです。
 
 
そうして、もう学ぶことは全部学んだと意気揚々帰国したのでした。これが空海が天才といわれる所以です。
 
 
最澄を高く買っていた桓武天皇が亡くなり、平城天皇、嵯峨天皇と皇位が移っていきました。嵯峨天皇は、密教をマスターした空海を高く評価して、彼に仏教の普及を任せたのでした。

 
 

◆ 対照的な空海と最澄

 
 
日本に帰ってから仏教を普及したこの2人の天才僧は、その方法も生き方もまったく対照的でした。これはなかなか興味深いですよ。
 
 

★ 天才なのに協調性ありの空海

 

 
空海は、コミュニケーション力が高く、人を引き付ける魅力のある天才でした。細かいことにこだわらず、おおらかだったので、人望が厚かったのでしょう。
 
 
自ら庶民の中に入っていき、仏の道を教えながら、治水工事をしたり、庶民も学べる綜芸種智院を設立したりして、人々に感謝されることが多かったのです。そのうち、彼自身が信仰の対象となるほどありがたがられました。
 
 
嵯峨天皇は、そんな空海に「高野山」を、その後「東寺」をプレゼントしてくれました。これで、都での真言宗の本拠地をゲットできたわけです。
 
 

★ 空海は南都六宗と友好的


当時、正式に僧侶の資格を得るためには、どんな宗派であっても、「東大寺の戒壇で戒律を受ける」必要がありました。
 
 
空海の密教、真言宗は古い奈良仏教・南都六宗とは教えが異なります。でも、ここでも空海のコミュ力と柔軟性が発揮されました。空海は、なんなく奈良の仏教・南都六宗とも、友好な関係を築いたのです。そして、東大寺内に真言宗専用の戒壇院を設けることに成功したのでした。さすがです。

 
 
空海はとにかく「真言宗の僧を出したかった」、そして、南都六宗は「最先端の密教を知り仲良くなっておきたかった」という利害関係が一致したのでした。
 
 
こうして、この空海のうまい対応で、真言宗は弟子を正式な僧侶として輩出できるようになったのです。
 
 
今最優先させることが何か、こだわりを捨ててまっさらな心で考えられるところが、空海のすごいところだなと思います。

 

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★ 生真面目努力型で融通が利かない最澄

 

 
一方の最澄は、空海とは正反対でした。
 
 
彼はとても生真面目で努力家で誠実な人でした。日本に帰ってからは、比叡山にこもって修行を積み重ね、天台宗を広める弟子を育てて人の役に立とうとしたのです。
 
 
最澄はたいへん努力をしました。でも、それが人目につくことはあまりなかったのです。

 
 

★ 最澄は南都六宗と真っ向から対立


奈良仏教・南都六宗との関係では、最澄の生真面目さが裏目にでました。彼は「東大寺にのみ戒壇を認める」南都六宗に真っ向から対立したのです。天台宗は大乗仏教なので南都六宗とは異なるから、「比叡山に別の戒壇院を作りたい」と提案したのでした。
 
 
この提案は、南都六宗には到底受け入れられないものでした。
そして、不運なことにこのタイミングで、パトロンだった桓武天皇が崩御してしまったのです。
 
 
後ろ盾のなくなった最澄は、ますますピンチになり、南都六宗と長い間、論争を続けました。
 
 
天台宗のほうが優れた正しい教えだと心の底から思っていたので、南都六宗にへつらうのが嫌だったのでしょう。(でも、空海だって真言宗の教えのほうが南都六宗よりずっと素晴らしいと思っていたはずです。)最澄は南都六宗に歩み寄ることなく5年以上論争を続けました。
 
 
その間、天台宗の弟子たち学僧は、正式な僧侶になれないまま、ちゅうぶらりんな状態におかれてしまったのです。
 
 
そうすると、当然、最澄の弟子たちは、天台宗では僧侶になれない、このままじゃいつまでもニートかもしれないという不安に駆られます。そして、次々と戒壇のある奈良仏教へ移っていってしまったのでした。
 
 
それも、やむを得なかったのでしょう。
 
 
空海と最澄が絶縁関係になった本当の原因はこれだった!
次回はこちら♪

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なぜ空海と最澄は絶縁状態になったのか?★理由を簡単に説明
 
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