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こんにちは。
 
 
今回取り上げるのは、仏教界のマルチ天才僧・空海!
 
 
当時最先端だった「密教」を、唐で学び日本に伝えた空海。
 
 
名前からしてすごいですよね。
「空」と「海」ですよ。
 
 
彼は庶民出身の天才で、ことわざ「弘法も筆のあやまり」の元でもある「三筆」の1人、書の達人でもありました。また、庶民も学べる私立学校を作ったり、治水工事の指揮をとったりと、マルチな才能を持つ人でした。
 
 
そんな空海と彼のしたすごいことについて、お伝えします。
年表は、この記事の一番下にあります。

 
 

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◆天才児「空海」はいつどこで生まれた?


 
空海は、774年に讃岐国(現香川県)の地方豪族・佐伯田公(さえきのたぎみ)の息子として生まれました。少し裕福な豪族だったようです。
 
 
名前は、佐伯真魚(まお)といいました。
 
 
幼いころからもの凄く聡明だった空海は、18歳で官僚になるため大学寮に入りました。そこで猛勉強したのですが、エリート官僚になるなんてつまらないと思ったのか、20歳ぐらいで仏教を学ぼうと思い立ち、大学寮を退学します。

 
 

◆唐へ留学

 

 
それから、いろいろ試行錯誤をし仏道修行を重ねていたのですが、四国で仏道修行をしているときに、遣唐使の船に乗るチャンスをつかみました。
 
 
当時、まだ無名だった空海は、私費で唐(中国)へ渡ると決心したのです。
 
 
その遣唐使の船には、帝の勅命を受けた高僧・最澄も乗っていました。日本屈指の高僧・空海と最澄が同時期に唐に留学していたというのは、偶然とは思えないぐらいですね。
 
 
無事に唐に到着した空海は、長安の青龍寺の恵果(えか)という高僧に師事しました。
 
 
そして、当時の最先端の学問「 密教 」を、驚異的な早さで習得していきました。空海は、めちゃくちゃ理解力が優れていて、めちゃくちゃ記憶力のある天才だったのです!
 
 
20年の予定だった留学生活でしたが、空海はたった2年でそこでの学びを全てマスターし、もう学ぶことはないと考え帰国したのでした。どれだけ賢い人なんでしょう。

 
 

◆「真言宗」を開きパトロン嵯峨天皇ゲット


 
帰国したときの、空海の言葉が残っています。
 
 
「虚しく往きて実ちて帰る(むなしくゆきてみちてかえる)」
「何も知らない状態で留学し、満ち足りて帰ってきた」
 
 
知識を詰め込んで帰国してますね。満足しているのが分かります。
帰国した彼は、さっそく「真言宗」を開き、習得した「密教」を広めました。
 
 
「密教」は、万物を司る仏として「大日如来(だいにちにょらい)」を信仰の中心にする教義です。空海は、死んでから極楽浄土に行くのではなく、この世でこの身のまま仏になれる(即身成仏)と説きました。
 
 
空海の力を見出した嵯峨天皇は、816年に、彼に気前よく「高野山」を贈ります。な、なんてラッキーな! それをうけて、空海はその高野山に修行場の金剛峯寺を建立したのでした。
 
 
その後823年には、京都の「東寺」をもらって、都でも活躍できるようになりました。東寺は当時は都の南の果て、今は京都駅からぎりぎり徒歩圏です。(1駅ぐらい)
 
 
やっぱりパトロンは大事ですね。よく比較される最澄が気の毒に思えます。
 
 
空海は、人の中に入って人と共に修行をする僧でした。コミュ力も協調性も抜群で、細かいことは気にしない大らかな人柄だったようです。机の上で学ぶ高僧のイメージとは、まったく異なりますね。
 
 
そうして人々と触れ合ううちに、いつの間にか空海そのものが、信仰の対象となっていったのでした。

 

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◆治水工事の知識もばっちり

 

 
空海は、宗教以外でも活躍し、人々に感謝された人でした。
 
 
その1つに治水事業があります。彼は、唐で学んだ土木知識を応用して、池の修復工事を行いました。
 
 
香川県に満濃池(まんのういけ)というよく決壊して人々を困らせていた池があったのです。その土木工事の陣頭指揮をとり、たった3カ月で治水を完成させ、人々に感謝されました。
 
 
この池は、日本最大の灌漑用ため池として、今も使用されているそうですよ。
 
 
これ以降、空海の伝説は、なぜか「水」に関することが多くなります。干ばつで困っていた村に「泉」をプレゼントしたとか。庶民の間で、「水を操る高僧」という印象を持たれたのでしょうね。

 
 

◆「書」の達人で「三筆」と呼ばれる

 
【弘法大師(空海)筆尺牘三通「風信帖」国宝】
 
空海は、嵯峨天皇のお気に入りでした。嵯峨天皇もかなりの芸術家で能書家だったので、気が合ったのでしょう。
 
 
そんな嵯峨天皇と空海は、ともに書の達人「三筆」です。もう一人は、橘逸勢(たちばなのはやなり)という人です。
 
 
この橘逸勢も、とても興味深い人ですよ。空海や最澄と一緒に唐に行って学んだ人です。唐では空海と気が合ったのか、一緒に行動することが多く、一緒に日本に帰国しています。
 
 
空海は、唐で「書」も本格的に学び、唐にいるときも「書の達人」として知られていたそうです。本場の中国でも認められてたって、凄すぎです。
 
 
私は残念ながら、「書」の判断はできない(みんな上手に見える)のですが、空海は中国のあらゆる書体で書き分けができたそうです。彼の「書」は「国宝」として残っています。(上の画像)
 
 
また、彼は漢詩の名人でもありました。仏教、書だけでなく、学問全般を習得した天才だったのです。
 
 
829年、空海は、庶民のために私立の教育機関を作りました。それが「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」です。
 
 
それまでは、貴族の子弟の教育機関しかありませんでした。空海は、貧富に関わりなく俗人も僧侶も学べる施設、あらゆる思想・文芸が学べる総合教育施設を作ったのです。これは、当時の常識からすると、画期的な発想でした。

 
 

◆おわりに

空海は、当時の優れた高僧でありながら、庶民の元にいたことから一般人のカリスマとなり、死後は「仏さま」として信仰の対象となりました。
 
 
彼は、仏教(密教)の知識だけでなく他にも多くの才能のある天才でした。
 
 
下の年表に「死去」を指す「入定」という言葉がありますね。これは「入滅」とは異なります。
 
 
その理由は、「空海はまだ高野山で生きている」とされているからです。(そういうことになっています。今も空海のために食事が運ばれるのです。)
 
 
高野山は、特に夜、山の奥に入ると感じますが、闇の中に吸い込まれそうな、一種異様な雰囲気を持つ山です。今も女人禁制の場所があります。
 
 
小学校の林間学校で登ったとき、子供が登れるハイキングコースだったのに、ある子が「ここから先には絶対行かん!!」と泣き叫んで嫌がったのを覚えています。
 
 
いつも普通の子だったのに、何かにとりつかれたかのように恐怖におびえていたので、先生方も不審に思い、その子はそこでリタイアしました。
 
 
もうずいぶん前のことですが、すごくびっくりした体験だったので覚えています。そして、みんなで「この山大丈夫か?」と話していたのでした。
 
 
感じやすい人は、何かを感じ取るかもしれませんよ。
 
 
ちなみに次回は天台宗の「最澄」についてです。「空海」とは違うタイプの天才でした。

   ↓
澄を簡単に!生真面目秀才だけど柔軟性なく後半生は不遇な日々?
 
 

◆「空海」の年表


 
・774年(1歳)
讃岐国の地方豪族の家に誕生
 
・792年(18歳)
 大学寮に入寮
 
・804年(31歳)
 東大寺戒壇院で得度受戒・遣唐使留学僧として唐へ立つ
 
・805年(32歳)
 密教の青龍寺の恵果(えか)に師事
 
・806年(33歳)
 帰国
 
・816年(43歳)
 「高野山」を下贈される
 
・821年(48歳)
 満濃池の改修工事を指揮
 
・823年(50歳)
 太政官符により東寺を賜る
 
・828年(55歳)
 都に教育施設「綜芸種智院」を設立
 
・835年(61歳)
 入定(にゅうじょう)
 
・921年 
 醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を下贈される

 
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