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こんにちは~。
 
 
昨日、今出川に用事があったので、ついでに幕末を想いながら「京都御所」の散策をしてきました。昨日はぽかぽか陽気の快晴だったのに、今日は大雨です。季節の変わり目ですね。
 
 
ちなみに、京都では「御所」といえば「京都御苑」全体を指すことが多いです。
 
 
京都御苑は、一般の人も出入り自由ですよ。昨日はお天気がよく、子供連れのファミリーが遊びに来ていました。

 
 

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明治以前の京都御苑は、数百の公家の住む町だった

 
【出典元:https://www.env.go.jp環境庁・庭園管理】
 
上の画像は、江戸後期の「京都御苑」のおおまかな図です。当時は、もちろん今のようにバシッと区画化されていませんでした。
 
 
京都御所の周り(京都御苑のあたり)には、江戸時代には200もの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいて、1つの町のようになっていたのです。
 
 
まず、大きなこげ茶色っぽい長方形の場所が2つありますね。
 
 
「禁裏」と書かれたところが天皇・皇后のいる「御所」、「仙洞御所・大宮御所」が、上皇と皇太后の邸宅です。
 
 
少し小さい「桂宮」・「有栖川宮」など「宮」のつく場所は、天皇の親戚筋です。
 
 
その他の濃い緑色っぽい場所が、それぞれ「五摂家」の邸宅でした。4つしかないですね。もう1つ「二条家」は、ギリギリ見切れているんですよ。
 
 
図の左上の今出川御門の左にあるのが五摂家筆頭「近衛家」邸宅で、その斜め左下にあるのが「一条家」の邸宅。
 
 
今出川通りの北側、この図で上に見切れているところに「二条家」の邸宅がありました。現在は同志社女子大学になっています。
 
 
その「二条家」の西側、「桂宮」の真北あたりに「薩摩藩邸」があり、現在・同志社大学になっています。
 
 
残りの2つの家は、ずーっと下がって一番南の真ん中あたりにあります。
 
 
「九条家」と「鷹司家」です。
 
 
まとめると、京都御所の北のほうに「近衛家」「一条家」「二条家」が、南のほうに「鷹司家」と「九条家」があったのでした。
 
 
今の御苑は、市民の憩いの場にしようという意図が見え見えなので、ほとんど公園になってしまってますが、「九条家の庭園」は残っています。
 
 
「九条家」の庭園にかかる橋の上から撮影しました。
     ↓

 

 

御所の中は、今は「梅」が満開でしたよ。
   ↓

 
 
人がいたので、上の方しか写真を撮れませんでしたが、梅はやっぱり地味ですね。桜に比べると……。
 
 
後1カ月もすれば、桜が満開になってお花見日和になるでしょう。人が大勢集まるから、私は行きませんけどね。

 
 

幕末の「五摂家」の立ち位置

 

 
幕末の公家たちは、それぞれ各藩と結びつきがあり、思惑もそれぞれでした。
 
 
「近衛家」は、代々薩摩藩と婚姻で強く結びついていたので薩摩側です。篤姫が徳川家に嫁ぐ際、身分のつり合いをとるために、近衛家の養女として格上げしてから嫁に行ったのは、よく知られています。
 
 
「二条家」「九条家」は幕府側でした。「一条家」は、当主が若かったこともあり、目立った動きをしていません。
 
 
残りの「鷹司家」は、長州贔屓でした。
 
 
「禁門の変」の際、天王山の長州軍本隊が「堺町御門」から入り、この「鷹司邸」に立てこもったのは、味方だったからなのです。
 
 
松下村塾過激派トリオ・久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎が、この「鷹司邸」で戦死または自刃しています。
 
 
このとき、幕府軍が「鷹司邸」に火をつけ、それが京の町に延焼して庶民にも大きな被害が出てしまったのでした。

 

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三条実美(三条家)はどうだったの?

 
【出典元:Wikipedia】
 
幕末の公家と聞いて、真っ先に思いつくのは、三条実美岩倉具視ですね。
 
 
岩倉具視は、公家の中では家格はうんと格下なので、ここでは触れません。
 
 
三条実美の「三条家」は、「五摂家」に次ぐ藤原北家閑院流の「清華家」筆頭です。
 
 
「五摂家」のように摂政・関白にはなれないけれど、太政大臣にまでなれる家格です。「三条家」の邸宅は、上の図では、「禁裏」の東側の細かい区画の中にありました。
 
 
「三条家」は、土佐藩とのつながりの強い家でした。実美の母は、土佐藩主の娘です。そして、彼が父の代からの尊王攘夷派だったのはよく知られています。
 
 
実美が子供のころから武市半平太などが邸宅によく来ていました。桂小五郎など長州の攘夷志士も、出入りしていて自然に知り合ったようです。
 
 
そうして、そのまま長州藩と仲良くなり、「七卿落ち」することになってしまったのでした。
 

 

おまけ★「本当の蛤御門」と「西園寺邸跡」


有名な「蛤御門(はまぐりごもん)」は、御苑の西側面の真ん中あたりにあります。この門の名前をとって「禁門の変」は「蛤御門の変」とも呼ばれます。
 
 
この門、じーっと見ていただくと、現在ある位置とちょっと違います。かなり内側に入っているのです。もとは、この場所にあり、南側をむいていたようなのです。
 
 
蛤御門の戦いは、実は小競り合いでした。ここで西郷隆盛や会津の山本覚馬が出動して、大砲で長州を追っ払ったので、有名になっていますね。長州の来島又兵衛がこの戦いで自刃しました。
 
 
この「蛤御門」の近く、「有栖川宮」のある一角の左側の細かい区画の下から2つ目が、西園寺邸跡です。
   ↓

 
西園寺家は名門の「清華家」の一つで、琵琶の宗家でした。この辺りにある「白雲神社」は音楽の神様・弁財天を祀る西園寺家の神社です。
 
 
ここは、西園寺公望が、明治に入って立命館大学の前身「私塾立命館」を創設した場所でもあるのです。
 

 
 
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