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桓武天皇は、794年に京都に都を遷都した人として知られています。
でも、実はこの人、血筋的には、とても天皇になれるような血統の人ではなかったんです。
今回は、そんな桓武天皇につい、簡単にお伝えします。
桓武天皇の血筋
桓武天皇は、父の光仁天皇と母の高野新笠(たかののにいがさ)の第一皇子として生まれました。ちなみに、天智天皇の曾孫にあたります。
桓武天皇の母・高野新笠は、百済系渡来人の娘でした。帰化人だったのです。
彼女の父は、父・和乙継(やまとのおとつぐ)は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族でした。
母の身分が低かったため、天皇になることはまずないと思われていたのですが、政争によって他の天皇候補が退位したので皇太子となりました。
当時、奈良の平城京は、仏教勢力が政治に口出しをし、混乱していました。
それで、桓武天皇は、784年に長岡京(現・京都市西京区)に都を移します。しかし、それから次々に天災や身内に祟りが起こったので、794年に平安京(現・京都市内)に都を移すことに決めました。。
遷都の理由は、立て続けに天災や祟りが起こるのは、「桓武天皇が天皇になるべき血統ではないからではないか」という考えが民衆に広まることを恐れたからといわれます。
団結した民衆が反乱を起こすのは、朝廷としては何としても止めたいですしね。
平安京遷都の後、桓武天皇は、蝦夷(えみし)を平定するために蝦夷征討を行いました。
蝦夷討伐は、始めはなかなか成果がでなかったのですが、2度目の遠征で坂上田村麻呂が大活躍し、3度目の遠征で征夷大将軍に任命され、東北地方平定に成功しました。
桓武天皇は、自ら百済系渡来人だったため、百済人をたくさん朝廷に登用したといわれます。今の芸能界みたいですね。坂上田村麻呂も百済系帰化人といわれます。
百済系帰化人は背が高かったらしく、桓武天皇も当時の人の中ではかなり長身でした。
早良親王の祟りと平安遷都
桓武天皇は、即位したときすでに44歳という高齢(当時は)でした。
そして、即位してすぐに、天武天皇の子孫の謀反や天災が起こり、もともと奈良仏教から離れたかったこともあり、長岡京に都を移そうと計画しました。
新都の造営長官が、桓武天皇の信任厚い藤原種継(たねつぐ)でした。
しかし、藤原種継が、何者かの手で暗殺されたのです。
容疑者として浮上したのは、桓武天皇の弟で、当時皇太子だった早良親王でした。
早良親王は捕らえられて廃太子となり、淡路の国に配流されました。
でも、おそらく彼は無実、というか嵌められたのだと考えられています。
桓武天皇は弟ではなく息子の安殿(あき)親王に皇位を譲りたいと思っていたようです。また、早良親王は大伴氏・秦氏と懇意で、それを追い落とそうとしていた藤原氏の陰謀だったと考えられます。
桓武天皇も藤原氏も目障りだった早良親王をうまく処分したつもりでしたが、そうきれいに事は済みません。
その後、早良親王は無実を訴え断食し餓死してしまったのです。これはかなり後味の悪い最期でした。
案の定、それから約3年後、長岡京に早良親王の祟りが襲うようになりました。
まず、桓武天皇の后・旅子、次に早良親王の母・高野皇太后、安殿の母で桓武天皇の皇后など、身内の女性が5人も相次いで亡くなったのです。
それを受けた桓武天皇は、急いて早良親王の御陵のある淡路国府に命じ、御陵に塚守を置きました。
それでも、早良親王の祟りは治まりません。大飢饉が襲い、とうとう天然痘が大流行してしまいました。
そして、皇太子の安殿親王が病に倒れます。
陰陽師に占わせると、病の原因も凶作、天然痘の大流行も、すべて早良親王の祟りだと分かったのでした。
794年、ついに桓武天皇は長岡京を捨て、当時の風水で万全の守り地と陰陽師に太鼓判を押された山城国に都を移すことに決めます。
東方に「青龍=川(鴨川)」があり、西方に「白虎=大路(山陰道)」があり、南方に「朱雀=池(巨椋池)」があり、北方に「玄武=山(船岡山)」がある場所、「四神」に守られた土地。
それが、山城国・京都でした。
平安遷都後、桓武天皇は改めて早良親王の御魂を祀り、早良親王は鎮魂のため「崇道天皇」と追号されました。
平安時代は、怨霊の祟りが本当にあると信じられている社会だったのです。
なので、平安京は、桓武天皇が怨霊から身を護るために計算しつくして作られた都なのです。
この地の地形や神社仏閣の置かれた位置を見ていくととても興味深いですよ。
おわりに
桓武天皇は、それから平安京にこもり、数々の政策を行いました。
先程の征夷大将軍を始めて任命したのも彼ですし、関白や検非違使の制度を作ったのも彼です。
また、最澄を遣唐使として派遣したのも彼でした。
彼は子供がたくさんいたため、臣籍降下させたものもたくさんいます。その多くが「桓武平氏」となり平安末期に活躍する平清盛などに続くのです。
桓武天皇は、蝦夷討伐など遠征費や、平安京の建設で莫大な費用がかかりました。
国費を圧迫する恐れがあるとの近臣たちの助言で、平安京建設は途中で止まったままなのです。
平安京は、その後も完成することなく未完のままの姿なのです。
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