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こんにちは。
 
前回の記事で、後鳥羽上皇とケンカ別れしたと出てきた藤原定家。
 
 
彼は藤原氏ですが政治に携わる家ではなく「学問・和歌の家」に生まれました。
 
 
今回は、その藤原定家について、ポイントをお伝えします。

 
 

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◆藤原定家★和歌の家に生まれる

 

 
藤原定家は「百人一首」でよく知られていますが、あなたは何と読みますか?
 
 
ふじわらのさだいえ?
ふじわらのていか?

 
 
私はもっぱら「ていか」です。
理由は、断然こっちのほうがかっこいいから!(←たいした理由はない)
 
 
正式にはどっちが正しいのと言われると、「どちらも正解!」なのでした。「ていか」という音読みは「有職読み」呼ばれる読み方なのです。
 
 
有職読みというのは、特に敬意を表す古人に対して、実名(諱)の漢字を音読みにして呼ぶものです。和歌の世界など「有職の道」で主に用いられていたのでこう呼ばれます。
 
 
他にも、こういう人がよく呼ばれますよ。
   ↓
小野道風(とうふう)
源頼光(らいこう)
藤原公任(きんとう)
藤原俊成(しゅんぜい)

 
 
最後の藤原俊成は、定家の父です。藤原定家は1162年に和歌の大家・藤原俊成の次男として京の都に生まれました。
 
 
定家は若いころ、サッカー(蹴鞠)少年で、俊成とよく親子喧嘩していたそうです。後鳥羽上皇といい定家とといい、相当けんかっ早い情熱的な人ですね。

 
 

◆藤原定家が生まれたのは「源平合戦」の時期

 

 
藤原定家は、小さいころから宮廷の歌人だった父に和歌の英才教育を受けて育ちました。
 
 
定家が生まれたのは平安時代末期です。18歳のときに「源平の戦い」が起こります。時代は武士の世に変わりつつある時代でした。
 
 
都には木曽義仲がやって来たりしていろいろ政治的にもたいへんな時期でしたが、定家は知らん顔。
 
 
そんなことより「和歌の道」というマイウェイタイプでした。
 
 
平氏と源氏、武士が戦っていたとしても、藤原氏は貴族ですから、そんな泥臭いこと、どうでもよいわなという感じだったのでしょう。
 
 
歴史で習うとき、この時代は「源平の合戦」一色に染まっていたのかと思いがちですが、京都でも貴族の中にはほとんど興味のなかった人もいたってことですね。(確か、大飢饉だったような気が……)
 
 
彼はひたすら「和歌の道」を邁進していきました。

 

 

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◆後鳥羽上皇と「新古今和歌集」

 

 
藤原定家の和歌といえば、キーワードは「幽玄」。これが抽象的でどういうものかといわれると難しいのです。
 
 
藤原定家の時代でも、すでにすべての和歌が難しすぎると軒並み他の歌人たちから批判を受けていました。それでも、誰にも理解されなくても、自分の道をひたすら突き進む定家。
 
 
後鳥羽上皇にその才能を見いだされ、「新古今和歌集」(1205年完成)の編纂を任されることになったのです。
 
 
後鳥羽上皇は文武両道のたぐいまれな才ある上皇でした。とりわけ和歌の才能があったので、みずから編纂作業に加わり、積極的に選出していきました。
 
 
でも、進めていくうちに、藤原定家とどんどん意見が対立していきます。2人とも自分を曲げない熱い人だったので、すっかり険悪な関係になってしまいました。
 
 
そして、ついにある宮中の歌会で定家の詠んだ歌が上皇の癇に障り(私的な恨みをやんわり歌に盛り込んだらしいです、)後鳥羽上皇は、定家に謹慎処分を命じました。
 
 
この2人、どちらも「和歌に真剣だった」のが原因で、絶交してしまったのです。
 
 
定家を高く評価して宮中にあげたのは後鳥羽上皇です。また、定家は定家で、自分の日記に後鳥羽上皇の和歌の才能をべたぼめしています。
 
 
その後、後鳥羽上皇は「承久の乱」を起こし隠岐に配流されました。定家とは、最後まで会うことはなかったそうです。
 
 
定家が70歳になった頃、今度は後堀河天皇の命によって『新勅撰和歌集』の編纂が始まりました。定家は79歳のご長寿です。
 
 
再び撰者に選ばれた定家は、始め後鳥羽院の作品を候補に入れていたのですが、幕府の敵となった罪人を入れるわけにはいかず、削除せざるを得なくなったのでした。
 
 
後で述べますが、彼はそれを哀しみ、自分が私的に選んだ「百人一首」に、後鳥羽院とその息子・順徳院の和歌を選んだのです。

 
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◆「小倉百人一首」の撰者

 

 
定家は75歳になって「小倉百人一首」の選定を始めました。
 
 
きっかけは、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある親戚の宇都宮頼綱が、京都嵯峨野に持っていた小倉山荘の襖を飾るのに和歌を選んでほしいと、定家に依頼してきたことでし。定家は「百首」選んで「色紙」として作成したといわれます
 
 
1番は飛鳥時代の「天智天皇」の和歌で次第に時代が下り鎌倉時代の「順徳院」で100首終わります。それは、100人の歌人から1首ずつ選び作った歌かるたでした。
 
 
1番2番が天智天皇・持統天皇
99番100番が後鳥羽院・順徳院

 
 
最初と最後の2首が親子です。
 
 
定家はこの和歌集の最後に、大恩ある後鳥羽院と自分の和歌の弟子であり息子の蹴鞠仲間でもあった順徳院を選んだのでした。
 
 
ちなみに97番には、しっかり自分の和歌を入れています。
     ↓
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
 
 
「いつまでも現れない貴方を待っていると、まるで松帆の浦の夕凪の時に焼く藻塩のように、私の身はずっと恋焦がれるのよ」

 
 

◆晩年は日記「明月記」や「古典の写本」に従事

 

 
後鳥羽上皇が隠岐に流され、謹慎を解かれた藤原定家は再び宮中で歌人として仕えました。
 
 
晩年には和歌を作ることより、若手の歌人の育成に力を入れ、多くの貴族に和歌の指導・添削を行いました。
 
 
また、古典の集大成に強い関心を持ち、『源氏物語』や『土佐日記』の写本(手書きのコピー本)を作り続けたのです。
 
 
それらは、日本文学史上たいへん価値のあるものとして、今も残っています。
 
 
平安時代の貴族は、自分の日記を書き残すことをよくしていました。定家も例にもれず「明月記」と呼ばれる日記を記しています。
 
 
それがあるおかげで、私たちは、今も藤原定家の人柄や交遊関係が垣間見れるのです。
 
 
「文字の力」ってすごいですね!
 
 
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