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こんにちは。
宇治にある世界遺産の1つ、平等院鳳凰堂。
この土地はもともと平安初期に源融のものだったものが、その後、不動産として何人かの手に渡り、藤原道長が別荘地として所有したものでした。
鳳凰堂を建てたのは、その道長の息子・藤原頼通(よりみち)です。
道長といえば、3人の娘を国母(天皇の母)にすえた、あの強運の完全勝者ですよ。
歴史上の人物では、たいてい父が全部持って行ってしまうと、息子はあまりぱっとしないという例が多いです。この頼通も、その例にもれず、かなり運のない人でした。
その運の父・藤原道長については、こちらをどうぞ♪
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藤原道長はどんな人だった?年表付きで簡単に説明
目次
意外と長い?在位期間は50年!
頼通は1017年に摂政になってから、1067年までの50年間、摂政・関白として宮中にとどまりました。意外と長いと思いませんか?
父親がある程度レールを引いていてくれたのだとしても、50年という長期政権の維持は、無能ではできないと思います。
また、彼は和歌の才能がありました。歌合せなどを積極的に開いて、文化の発展にも貢献していますよ。
摂関政治には大きな弱点があった!
頼通にとっての最大の不幸は、子宝に恵まれなかったことでした。
摂関政治というのは、「娘を天皇の正妻にして、なおかつその娘が男の子を生まなければ勝者になれない」というルールがあったのです。つまり、外戚として力をふるうためには、自分の孫が天皇にならなければいけないってことです。
道長がすごい強運の持ち主だというのは、この子供に恵まれていたからというのもあったのでした。
頼通が子宝に恵まれないとなると、3人の弟たちがライバルになって、娘を入内させ取って代わろうと企むようになります。いつの時代も、兄弟は最大のライバルなのです。この点でも、道長はすでに兄たちが死に絶えた後だったので、ラッキーでした。
1016年、道長の娘・彰子の息子が後一条天皇として8歳で即位し、崩御するまでの、約20年間在位していました。その間に、朝廷内に君臨していた藤原道長が亡くなりました。
そして、天皇のほうはというと、後一条天皇から後朱雀天皇、後冷泉天皇と変遷していきました。
この後冷泉天皇の即位が、頼通にとってすごいリスクとなったのでした。その理由は、そのときに決まった皇太子(東宮)にありました。
尊仁(たかひと)親王の立太子で摂関政治が崩壊
後冷泉天皇の即位と同時に、尊仁(たかひと)親王が立太子します。この尊仁親王は後朱雀天皇と禎子内親王の間に生まれた人物、つまり、祖父が三条天皇でした。
この親王が天皇になったら、藤原氏が外祖父になれなくなるってことですよ。
でも、1068年、とうとう後冷泉天皇は崩御し、尊仁親王が後三条天皇として即位しました!
この瞬間に、道長が築き上げ「この世をば・・・」とおごり高ぶった和歌を詠んで満足していた摂関政治は、崩壊してしまったのです。
頼通のせいだけじゃない!平安末期の政情
★ 財政問題が表面化
頼通の時代になると、それまで表面化していなかった財政問題が、だんだん表面化してきたのです。これは、代々のしわ寄せでもあるので、頼通だけの責任ではありませんね。
★ 地方で大規模反乱
この時期、地方で「平忠常の乱」「前九年の役」という大きな反乱がおこりました。
★ 末法思想で寺社の勢力が大きくなった
このころになると、寺社の勢力がどんどん大きくなってきて、朝廷に強く圧力をかけるようになってきました。何しろ坊主というのは「神仏の威光」を盾にとるので、すごく厄介です。
平安時代の人々は、その神仏の力というのをかなり本気で信じていたので、強く反対できなかったのでした。
おわりに
藤原道長の時代にあれほど権勢を誇った藤原氏の摂関政治は、あっという間にその息子の時代に終焉を迎えました。
もともと大きな弱点のある仕組みだったということでしょう。
そうして、政治の仕組みは摂関政治から上皇が天皇を補佐する「院政」へと移ったのです。
この後三条天皇の後、天皇になった白河天皇は、息子の堀河天皇崩御後も、孫の鳥羽天皇、曾孫の崇徳天皇の後ろ盾となって、なんと43年間にわたる「院政」を敷いた人物でした。
父の道長については、こちらをどうぞ♪
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