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こんにちは。
 
 
マリーアントワネットは、オーストリアとフランスの同盟強化のため、政略結婚でフランス王家に嫁ぎました。
 
 
14歳でフランスに渡って、フランス革命に翻弄され、37歳でその人生の幕を閉じたのです。
 
 
彼女の死刑判決は、信じられないような理不尽な理由でした。

 
 

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◆マリーアントワネットが諸悪の根源のように非難された理由

 

 
フランス革命が進むなか、なぜか王家の中でマリーアントワネットだけが、民衆の憎悪の標的にされていました。
 
 
なぜ彼女がものすごく憎むべき対象にされたのか、それには2つの理由があったのです。

 
 

1.反発する貴族が市民に王妃を非難する新聞を書かせた

 

【出典元:Wikipedia】

 
民衆の憎悪の対象になった直接的な原因は、マリーアントワネットに反発する貴族たちが、彼女の宮廷内のことを、あることないことうわさとして市内に流し、パリの新聞屋をあおって、批難する記事を書かせたからでした。
 
 
そもそも民衆は、ベルサイユ宮殿内での出来事など、うかがい知ることはできないはずです。それが外にもれているということは、誰かが教えているということなのです。
 
 
反対する貴族は、好き嫌いのはっきりしたマリー・アントワネットにほとんど無視されていた人たちや、ブルボン家と敵対するオルレアン家の人たちでした。
 
 
新聞やパンフレットには、王妃がとんでもない浪費家だということだけでなく、ルイ16世の性的不能な事からマリー・アントワネットの性的な話まで事細かに書かれていました。
 
 
ランバル公夫人やポリニャック夫人など、お気に入りの側近たちとの同性愛や、パーティーでの乱交など、まるで見てきたかのように当然のこととして書かれたのです。
 
 
そして、王妃を攻撃するプロパガンダは、新聞だけでなく、歌や風刺画、演劇にいたるまで作品化されて伝えられたのです。
 
 
直接王妃を見たことのない民衆の多くは、それを鵜呑みにしていましました。

 
 

2.「外国人」で「女性」だったから

 

 
フランス革命は「市民」革命といわれますが、実際には、「ブルジョア階級の男性の人権のみを求める革命」でした。
 
 
革命時には、すごい女性性排除の観念があり、公共の場で女性の活動を認めないという決まりが作られました。
 
 
マリーアントワネットは、女性なのに「公の立場にある」女性です。
 
 
それだけでも非難の的になったのに、彼女はその上、外国人でした。フランス革命の「市民」には、「外国人」は含まれていません。
 
 
しかも、マリーアントワネットは、それまでフランスの敵国になっていたオーストリア人です。
 
 
なので、「オーストリア女」と敵意を込めた言い方で呼ばれ、オーストリアと通じて、フランスを攻撃しようとしているという内通の疑いをかけられたのです。

 
 

◆マリーアントワネットの革命裁判

 

 
マリーアントワネットの裁判は、1793年10月12日から15日まで3日間行われました。
 
 
そして、その翌日の10月16日 に処刑されました。
 
 
国王の裁判は、主だった政治家がずらりと並び、激しい議論が交わされました。でも、王妃の裁判は、主な政治家はほとんど関心がなく不在でした。国王の裁判のときに力強く演説したサンジュストも、ロベスピエールも、王妃の裁判のときは顔を出さなかったのです。
 
 
死刑が確定していた形ばかりの裁判だったと分かりますね。革命の生贄です。

 

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◆マリーアントワネットの3つの罪

 

【出典元:Wikipedia】

 
裁判でマリーアントワネットに下された罪は3つありました。
 
 
1.国庫を浪費したこと
2.オーストリアに軍事秘密を漏らしたこと
3.息子と不適切な(性的な)関係を結んだこと

 
 

1.国庫を浪費した件

 

 
国庫を浪費したとありますが、王妃がおしゃれや豪遊に費やした金額などは、国庫全体からするとたいした額ではありませんでした。
 
 
ルイ14世のベルサイユ宮殿建設やルイ15世の愛人への下賜金、それに歴代から続いてきた数々の戦費の負担が、財政破綻の原因だったのです。
 
 
それでも民衆の怒りは、マリーアントワネットに向けられたのでした。

 
 

2.オーストリアに軍事機密をもらした

 
 
フランスとオーストリアは、もともと長い間敵国でした。マリーアントワネットが2国の橋渡しとして嫁いだのは、マリア・テレジアの外交革命を強化するためでした。
 
 
だから、フランス国民には、オーストリアへの根強い敵対感情があります。敵国から嫁いできたマリーアントワネット、「ヴァレンヌ逃亡」では、オーストリアに逃亡しようと企てました。そんな女ならきっとフランスの国家機密を実家に漏らしているだろうと考えられたのです。

 
 

3.息子と不適切な(性的な)関係にあった

 

【出典元:Wikipedia喪服を着たマリーアントワネット】

 
マリーアントワネットの裁判では、王妃の名誉を傷つけるために様々な告発がありました。
 
 
その1つが8歳息子に対する性的な虐待というものです。でも、これは周りの人々もうんざりするような馬鹿げたでっち上げでした。
 
 
8歳の息子に対してですよ。もしも父親が娘にというならもしかしたあり得るのかもしれません。(←完全に男の発想なのです)実母としては考えられないことですよ!
 
 
でっち上げたのは、ゲスイ発想しかできない無教養の新聞屋エベールという男でした。
 
 
でも、当時は王妃が「飽きることのない好色女」だというパンフレットが、町にあふれていたのです。それでこのような下劣な告発でも大丈夫だろうと思ったようです。
 
 
このどうしようもない告発に、マリーアントワネットは、毅然として立ち向かいました。彼女はこの死の間際になって、生涯でもっとも高貴な王妃の姿になったといわれます。
 
 
でも、この裁判では、彼女の最愛の息子・ルイ・シャルル本人が証言したのです。
 
 
ルイ・シャルルは自分の言うことが何を意味するのか、どれだけ母を絶望のどん底に突き落とすのか知りもしないまま、訴えを「肯定」したのでした。
 
 
マリーアントワネットは、あらゆる告発の中で、もっとも「低俗な告発」を愛する息子にされてしまったのでした。
 
 
それでも、マリーアントワネットは、この卑劣な告発に大きなよく通る声で軽蔑をこめて言いました。

「わたしが答えませんでしたのは、母である身に向けられたそのような誹謗に対して何か応じるというのを、自然が拒むからであります。」
 
「ここにおいでの母であるすべての方々に、わたしはうかがってみたいと思います。」
 
【出典元:『マリーアントワネット』ツヴァイク(角川文庫)】

 
 
会場にいたすべての女性が、身分の垣根を越えて、このとき王妃に共感しました。
 
 
この1人の女性への侮辱は、女性全体が侮辱されたにも等しいのだと、そこにいたすべての女性が悟ったのです。
 
 
エベールの告発は、王妃を引きずりおろすどころか、王妃の高貴さを引き立てる結果になりました。
 
 
このあたりは『ベルばら』でもしっかり描かれていて、王妃の誇りと真の高貴さがしっかり伝わります。(『ベルばら』はツヴァイクを下敷きにしているので)

 
 

◆10月16日・マリーアントワネットの処刑

 

【出典元:Wikipediaマリーアントワネットの処刑】

 
美しかったマリー・アントワネットはやつれはて、髪を短く刈られて後ろ手を縛られ、動物用の荷台に乗せられて処刑場に連れてこられました。
 
 
王妃と親しかったものは、見るに耐えず、その場で泣き崩れた者もいたそうです。
 
 
でも、マリーアントワネットの美しい身のこなしは、処刑台に立った時も変わらず高潔さすら感じられたです。
 
 
1793年10月16日12時15分、マリーアントワネットはコンコルド広場で処刑されました。
 
 
元ハプスブルグ家皇女・フランス王妃だった女性の最期でした。

 
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