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こんにちは。
 
 
ルイ15世は、たいへんハンサムで女好きだったと知られる国王です。
 
 
彼は、5歳で類14世(曾祖父)の後を継いでフランス国王となったのですが、成人してからも、政治にほとんど無関心でした。
 
 
性格は内気で大人しかったそうですが、女性が好きで、正妻の他に数々の公妾を抱えていたのです。
 
 
王妃マリー・レクザンスカと夫婦仲はよかったそうですが、毎年のように妊娠させられてマリーのほうがもうたくさんという感じだったとも伝わります。
 
 
ルイ15世が若い頃、夢中になったのは、ネール姉妹(5人姉妹)の五女・マリーアンヌでしたが、彼女が若くして病死してしまい、それから少したって出会ったのが、ポンパドゥール夫人でした。
 
 
ポンパドゥール婦人、名前が覚えやすいですね。女性の前髪を上げる髪型・ポンパドゥールの元になった人ですよ。
 
 
美しくおしゃれで芸術を愛し、ついでに政治にも強い関心のあった才女です。

 
 

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◆ポンパドール夫人はどこの生まれ?

 

【出典元:Wikipediaポンパドゥール】

 
ポンパドゥール夫人は、特権階級(貴族)ではなく、ブルジョア出身です。
 
 
本名はジャンヌ・アントワネット・ポワソン
 
 
彼女の父はかなりお金持ちの銀行家で、そのおかげで高等教育を受け、若い頃からかなりの才女と知られていました。
 
 
20歳のときに裁判官のデティオールと結婚し、子供も2人産みました。
 
 
24歳のとき、社交界で、ちょうど愛する公妾を亡くしたところだったルイ15と仮面舞踏会で運命的な出会いをし、数か月後には、国王の公の愛人(公妾)となっていたのでした。すごいスピード出世です。
 
 
家族はどうしたの?と気になりますが、子供は早くに亡くなったそうなので、夫はもはや無用の長物だったのでしょう。
 
 
彼女は30歳前ぐらいに体調を崩し、それ以降は公妾としてではなく、ルイ15世のよき理解者・信頼できる友としてずっと仕えていたのでした。

 
 

◆ルイ15世の公妾となり贅沢三昧

 

 
国王の公妾となった彼女は、ポンパドゥール夫人と呼ばれ、自分のおしゃれ心を満たすために、国庫からどんどんお金を使います。
 
 
こういう立場の人はたいがいそうなので、特別ひどいわけではありません。
 
 
でも、彼女の素晴らしいところは、ただの浪費で済まさなかった所でした。やはり賢い女性だったのでしょう。

 
 

◆ルイ15世スタイル(ロココ)の繁栄

 

 
ルイ14世時代の荘厳で行き詰るような王権を誇示したスタイルから、この頃になると、ちょっと緩やかで女性的な優美な室内装飾に変わっていきます。
 
 
それを主導したのが、お金を存分に使えたポンパドゥール夫人だったのです。
 
 
ポンパドール夫人は、ベルサイユ宮殿に自分のための離宮プチトリアノンを建ててもらいます。
 
 
この離宮のインテリアは、まさに可愛らしいロココスタイルだったのです。
 
 
なんといってもポンパドゥール夫人の好きな色は、スモーキーピンク♥
 
 
グレーががったピンクでした。それに金をあしらった陶器などが、彼女の時代に流行ります。
 
 
その陶器は、セーヴル焼といい、豊かな彩色を駆使したロココ様式の絵画がほどこされた装飾品でした。
 
 
陶器に興味をもったポンパドゥール夫人は、当時、陶器を製造していたヴァンセンヌ窯に特権を与えるように、ルイ15世を説得します。
 
 
ルイ15世は言われるままに、陶器製造を独占事業に決めて、ヴェルサイユに近いセーブルの町に工場を移転し、王立陶磁器製造所としたのです。
 
 
ポンパドゥール夫人自ら専門家を呼び寄せて指導・監督していたそうですよ。彼女によって選び抜かれた芸術家や彫刻家たちが、このセーブル窯で優雅で洗練されたロココ調の陶器を作ったのです。
 
 
彼女の働きで、ロココ芸術が花開いたのでした。

 

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◆国王に変わって政治の実権を握った?

 

【出典元:Wikipediaポンパドゥール】

 
ポンパドゥール夫人の大きな特徴は、政治に関心のないルイ15世に代わって、政治の実権を握ったことでしょう。
 
 
そう、彼女は美しいだけでなく、とっても賢い女性でしたね。権力欲も相当なものだったようです。
 
 
国内でも派閥を築いていろいろやっておりましたが、有名なのは、外交政策です。

 
 

◆3人の女帝(?)による「三枚のペチコート作戦」

 

 
フランスは、当時外交政策として、プロイセンと同盟を結び、オーストリアとは敵対していました。
 
 
でも、プロイセンのフリードリヒ2世が、領土への野心の強い王で、ものっすごい女性蔑視な(彼女から見れば)最低な王だったのです。
 
 
なにしろ、隣のオーストリアに女帝が立ったということで、「女帝など認めん!」とシュレジエン地方を奪ってしまうような俺様です。
 
 
でも、残念なことに、この時期、プロイセンの周りの大国は、優れた女帝が並び立った時代なのです。
 
 
まだ20代前半のうら若きオーストリア女帝マリアテレジア(マリーアントワネットの母)は、オーストリアの近代化の礎を築いた君主でした。
 
 
そして、彼女は、外交政策にも手腕を発揮します。これまで敵対していたフランスと同盟を結ぼうとしたのです。(外交革命)
 
 
このとき、フランスはやる気のないルイ15世ではなく、ポンパドゥール夫人が主導権を握っていました。
 
 
そうして、フリードリヒの野心を苦々しく思っていたロシアのエリザヴェータ女帝とも話をつけて、3国でプロイセン包囲網を完成させたのでした。
 
 
これを「三枚のペチコート作戦」と呼ぶことがあります。
 
 
女は共通の敵がいると、なぜかすっごく一致団結する生き物でですよ。フリードリヒ2世も、大変な女性3人を敵に回してしまいましたね。

 
 

◆怪しい館「鹿の園」とは?

 

 
ポンパドゥール夫人は、30歳ごろに体調を崩してルイ15世の愛妾を退きました。
 
 
でも、彼女は政治や権力に強い関心があり、ルイ15世とは仲がよかったので、そのまま王のよき理解者になっていきます。
 
 
そんな彼女が危惧したのは、他の女に王の寵愛が移ることでした。
 
 
なんとも都合のいい話な感じもしますが、王の気が変わったら、彼女の権力は失われてしまいます。
 
 
そこで考えたのが、自分のお気に入りの女性を王に紹介することでした。
 
 
なんだか大奥チックになってきましたが、女が裏で実権を持つ(女帝や女王に慣れない場合)には、そうする他ないのかもしれません。
 
 
そうして、ポンパドゥール夫人が考え出したのが、「鹿の園」という館を作ることだったといわれます。
 
 
そこは、ヴェルサイユの森に開設されたルイ15世専用の娼館(ハーレム?)でした。働いていた女性は貧困階級の少女で、王の前に出て死失礼のないよう礼儀作法やマナーを教えてから採用していたとも伝わります。
 
 
そして、一定期間が過ぎたら、そこを出るときにはかなりの良家に嫁げる待遇になっていたのだそうです。びっくりですが、現代の常識で考えてはいけないのでしょうね。

 
 

◆おわりに


ポンパドゥール夫人の他の公妾と異なる大きな特徴は、
 
1.フランスの政治に介入した
2.ロココ芸術を発展させた

 
ところです。
 
 
彼女は、やはり体が弱かったのか、42歳でヴェルサイユで病死しました。
 
 
ルイ15世は、また嘆き悲しみ、がっくりきていましたが、またまた新しい公妾候補を見つけたのでした。
 
 
それが、マリーアントワネットと対決するデュ・バリー夫人なのです。
 
 
政治に関心ない分、美女にはすごい関心のある国王なのでした。

 
 

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