この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。


 
こんにちは。
 
 
マリーアントワネットは、とっても社交的でパーティ大好き、おしゃれも大好きで、深く考えるのは好きじゃないという王妃でした。
 
 
そんな彼女は、美しいお姉さまが大好きでした。
 
 
「自分が一番の美女でなければ許せん」という王妃ではなかったところは、マリーアントワネットの良質だと思います。嫉妬心より、美しい女性への憧れのほうが、ずっと大きかったみたいですよ。
 
 
そして、彼女は、好き嫌いがめっちゃくちゃ激しい人でした。
 
 
王妃としてはかなり問題な性質ですが、策略などとは無縁だった彼女らしい無邪気さの表れだと思います。
 
 
フランスにやって来たマリーアントワネットが始めて親友になる女性が、ランバル公妃マリールイーズでした。

 
 

スポンサーリンク

◆ランバル公妃は名門出身・美女で性格も◎!

 

【出典元:Wikipediaランバル公妃】

 
こちらがランバル公妃マリー・ルイーズの肖像画です。
ふんわりした優雅な優しさを身にまとっています。
 
 
彼女は、名門の家に生まれた本物のお嬢様でした。マリーアントワネットと出会ったとき、夫に先立たれ未亡人になりヴェルサイユにいたのでした。
 
 
14歳のマリー・アントワネットがフランスに嫁いできたばかりのころ、2人は出会っています。ランバル公妃は、マリーアントワネットより6歳年上で教養と美貌を兼ね備えたとっても優雅な女性でした。マリーアントワネットは、賢く美しいランバル公妃が大好きになります。
 
 
ランバル公妃も、マリーアントワネットに常に忠実で、2人は信頼関係で結ばれていました。
 
 
ランバル公妃は、本当に心からマリーアントワネットのことを想い、本当に仲が良かったようです。
 
 
つまり、王妃を利用して身内を出世させたりお金をせしめようなどと企むことはありませんでした。もともと育ちがよいので、そういう所に頭が回らないのかもしれません。
 
 
でも、彼女は困ったことに、おしゃれが大・大・だ~い好きだったのです。そして、マリーアントワネットもおしゃれが大好きでした。(・_・;)
 
 
美しいドレスや靴、帽子、アクセサリー類、そんなものが大好きな女性は、古今東西たくさんいると思いますが、なんといっても、彼女たちは国庫からお金が出るのでした。(本当はダメだけど)
 
 
あまり物事を深く考えない女性たちなので、気が大きくなって、どんどん無駄遣いをしていきます。
 
 
そうして、ランバル公妃は、結果的にマリーアントワネットから莫大なお金を引き出していたのでした。彼女が宮廷を去るまでに、数億円ものお金が、下賜金としてフランスの国庫から出ています。

 

 

◆「女官長」に就任もポリニャック夫人にその座を奪われる

 

 
マリーアントワネットは、好き嫌いをはっきり表す人でした。
 
 
そして、1770年、大好きなランバル公妃を思いっきりひいきして、当時20歳だった彼女に、ヴェルサイユ宮殿の女官長の地位を与えたのでした。
 
 
このときにランバル公妃が、マリーアントワネットの享楽的な行動をいさめることができれば、少しは違っていたのかもしれません。でも、彼女は、マリーアントワネットに対して、心からの忠節を誓うのみで、本来の女官長としての役割を果たすことはできませんでした。
 
 
成長していくにつれて、マリーアントワネットは、ただただ誠実で生真面目で控えめなランバル公妃に、物足りなさを感じるようになっていきました。
 
 
そうして、マリーアントワネットは、自分とよく似た享楽的で社交的、天真爛漫なポリニャック夫人に寵愛を移したのでした。
 
 
ランバル公妃は、1780年ごろ、女官長の座をポリニャック夫人に計略で奪われ、そのままヴェルサイユ宮殿を去りました。
 
 
ポリニャック夫人と対決してドロドロの女の戦いに持っていかなかったところが、わきまえのある彼女らしいですね。

 
 

スポンサーリンク

◆フランス「九月虐殺」の犠牲に

 

【出典元:Wikipediaランバル公妃】

 
1789年、バスティーユ牢獄襲撃事件が起こり、フランス革命が始まります。
 
 
身の危険を感じた貴族たちは、われ先にと安全な外国に亡命していきました。
 
 
マリーアントワネットの一番の側近で女官長になったポリニャック夫人は、真っ先に王妃を見捨てて家族と共にオーストリアに亡命したのです。王妃からもらった多額の下賜金は、もちろん大切に懐(ふところ)に入れて。
 
 
一方、ランバル公妃は、いったん安全なイギリスに亡命したものの、マリーアントワネットの身を案じてパリに戻って来たのでした。そして、国王一家のいるチュイルリー宮殿に行き、王党派と連絡を取り合うなど、マリーアントワネットに献身的に尽くしたのです。
 
 
マリーアントワネットは、どんな気持ちだったでしょうね。ランバル公妃は、なぜ危険な王妃の元に戻ってきたのでしょう。自分を捨ててポリニャック夫人に乗り換えたマリーアントワネットに、恨みを抱いてなかったところが、彼女の性格を物語っています。
 
 
でも、それが仇になって、彼女は凄惨な最期を遂げるのです。
 
 
1792年、国王一家がタンペル塔に移送されると、ランバル公妃も王党派の一員として捕らわれました。
 
 
そして、彼女は、正式な裁判を受けることもなく、 1792年9月3日、興奮して怒り狂った民衆の手で虐殺されてしまったのでした。享年43歳でした。 
 
 
彼女の遺体は民衆の手でバラバラに引き裂かれ、首は槍にさして国王夫妻に見えるように、タンブル塔にまで運ばれました。
 
 
マリーアントワネットは、この知らせを聞いて失神したそうです。
 
 
ランバル公妃は、王妃を救いたかったのはもちろんのことですが、彼女もまた革命を絶対に許さないという強い意志を持っていたのではないでしょうか。
 
 
優雅で優しく控えめでしたが、芯はしっかりした貴婦人だったと思います。

 
 
【関連記事】
   ↓

 

 

 

スポンサーリンク