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こんにちは。
 
「ロココの女王」と呼ばれ、革命に人生を奪われた悲劇の王妃・マリー・アントワネット。
 
 
マリー・アントワネットの波乱の一生を、ここではできるだけ分かりやすく、スッキリまとめました。

 
 

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◆マリーアントワネット

 

【出典元:Wikipedia】

 
出身地: ハプスブルク帝国
生年月日: 1755年11月2日
死亡年月日: 1793年10月16日(享年37歳)

 
 

◆名門ハプスブルグ家の王女として誕生

 

【出典元:Wikipedia】

 
マリーアントワネットが生まれた頃、ヨーロッパでは、各王家が軍事力を持ち、けん制し合っている絶対王政と呼ばれる時期でした。
 
 
それぞれの王家は、婚姻して縁戚関係を結ぶことで、同盟を結んでいたのです。日本でも戦国時代に同じようなことをしていましたね。人間の考えることはあまり変わらないのでしょう。
 
 
ようするに、人質のような政略結婚でした。
 
 
当時、生家のハプスブルク家(オーストリア)は、プロイセン、イギリスの脅威にさらされていました。それで、マリーの母・マリアテレジアは、このとき、以前から敵対関係だったフランスと、手を結ぶと決めたのです。
 
 
イギリスと敵対していたフランスにとっても、このオーストリアとの縁組は利益のある話でした。
 
 
そうして、2国の利害関係が一致し、ハプスブルグ家の末娘・マリア・アントーニアは、マリー・アントワネットとして、フランス王家に嫁ぐと決まったのです。
 
 
当時の、君主の娘は政略結婚が当然だったので、特別ひどい話ではありません。でも、王侯貴族の家に生まれても、そんな風に自分の生き方を決められないって哀しいなと思うのでした。
 
 
たまたま夫が大当たりだったらラッキーですね・・・。
 
 
マリーアントワネットは政略結婚でしたが、母のマリアテレジアは、珍しく恋愛結婚だったそうですよ。・

 
 

◆退屈で孤独な王妃の一日

 

当時のフランスの宮廷は、貴族たちの力を削ぐために、彼らをヴェルサイユ宮殿に住ませて浪費させ、贅沢三昧な生活をさせたルイ14世時代の風潮が、かなり薄れたとはいえまだ残っていました。
 
 
マリーアントワネットは、そんなフランスの宮殿に、14歳で嫁いてきたのです。彼女は、社交的な性格でしたが、フランスでの暮らしは、強い孤独感を感じるものでした。
 
 
そんな彼女は、連日連夜、豪華なパーティを開き、贅沢な生活に溺れていってしまいました。
 
 
フランスとオーストリアは、それまで敵対関係でした。ですから、宮殿では、彼女が敵国ハプスブルク家出身で、なかなか世継ぎが産まれないことから、根も葉もないスキャンダルを広めたのです。
 
 
さらに、それらのゴシップをパリ市内にも伝えて、彼女をますます孤立化させていきました。
 
 
国王の夫ルイ16世は、大人しい内向的な性格で、派手好きなマリーアントワネットとは合いませんでした。
 
 
夫が心の支えにならなかったこともあって、本来あってはならないことですが、マリー・アントワネットはどんどん好きなお洒落や賭博などに莫大な国家予算を使っていったのです。

 
 

◆フランス革命とヴァレンヌ逃亡

 

 
1789年7月、バスティーユ牢獄が襲われ、パリが革命の波に飲み込まれました。フランス革命が始まったのです。
 
 
革命派による暴動が激化していく中、貴族たちは続々と国外亡命をしていきました。貴族というだけで虐殺されるおそれがあったのです。
 
 
取り巻きの貴族たちがどんどん夜逃げをするように外国に逃亡していき、危機を察知したマリーアントワネットは、母国オーストリアへの亡命しましょうと、ルイ16世を説得しました。
 
 
このときに全面協力してくれたのが、マリー・アントワネットの最愛の恋人・スウェーデン貴族のフェルゼンでした。
 
 
でも、世間知らずな一家で、贅沢な身の回り品や食料を馬車にわんさか積んで逃げようとしたため、目標時刻からかなり遅れてしまったのでした。
 
 
それで、途中で合流するはずだった護衛兵に、会えませんでした。命を賭けた逃亡なのに、なんてお気楽な~と思うのは庶民的感覚なのでしょう。
 
 
こうして国王一家は、ヴァレンヌ周辺で身元を見破られ、亡命計画は失敗に終わったのです。
 
 
この「ヴァレンヌ逃亡」は、国王がフランス(国民)を見捨てたと民衆に印象付け、王家に対する民衆の信頼が完全に失墜した事件でした。
 
 
革命暴動は、それ以降さらに過熱して、とうとう国王夫妻はタンブル塔に軟禁されてしまいました。(これは当初は国王一家を暴徒から守る意味もありました)

 

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◆全てを失い王妃としての威厳に目覚める

 

 
ルイ16世は、1793年1月15日コンコルド広場で処刑されました。
 
 
その後、マリーアントワネットは2人の子供たち(一男一女)とも引き離され、常に喪服を着て神にお祈りをささげる生活をしていました。
 
 
そして、同年10月、でっちあげの理由をたくさん並べられて、死刑宣告を受けたのです。
 
 
彼女はその日、義妹のエリザベートに最期の手紙を書きつづりました。
 
 
エリザべートはたいへん情深く、しっかりした女性で革命以降のマリーの一番の心の支えとなっていた女性です。
 
 
最期の手紙を、娘にでも息子にでも母国にでもなく、義妹のエリザベートにつづったところからも、彼女がどれほど国王一家の支えになっていたのかわかります。
 
 
でも、マリーアントワネットの手紙は、エリザベートに元に届くことはありませんでした。
 
 
エリザベートもまた、革命裁判所ででっちあげの証拠を並べられて、処刑されてしまったのです。

 
 

◆マリーアントワネットの簡単年表

 

・1755年(1歳)
名家ハプスブルク家に末娘(11女)として誕生
 
・1770年(14歳)
フランス王国ルイ16世と結婚
 
・1774年(18歳)
ルイ16世がフランス王に即位
マリーアントワネットはフランス王妃に。
 
・1789年(33歳)
フランス革命勃発。
 
・1791年(35歳)
 国王一家の「ヴァレンヌ逃亡」。
 
・1792年(36歳)
国王一家がタンプル塔に幽閉される。
 
・1793年1月21日(37歳)
ルイ16世がコンコルド広場で処刑。
マリーアントワネットはコンシェルジュリに移送。
 
・1793年10月16日(37歳)
マリーアントワネット、コンコルド広場で処刑

 
 
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