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こんにちは!
今回は、ナポレオン・ボナパルトの後半生について!
彼の出生から皇帝に就任するまでの絶頂期と年表は、こちらでお伝えしています。
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⇒★ナポレオンの前半生★貧乏貴族が皇帝に!「ナポレオン法典」も!
目次
◆戦争に連勝で「神聖ローマ帝国」を消滅させる
神聖ローマ帝国は、962年オットー1世が開いたドイツ中心の複合国家でした。
15世紀以降は、ハプルブルグ家が帝位を独占していたのですが、すでに1648年の「ウェストファリア条約」で、実質的な国家機能を失っていました。
そして、ナポレオンの時代、1805年のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)でぼこぼこに負けてしまい、翌1806年の「ライン同盟」結成で、名実ともに消滅することになったのです。
最後の皇帝はフランツ2世で、彼はその後もオーストリア帝国の皇帝として君臨し続けました。
1805年、イギリスとのトラファルガー海戦は敗北し、イギリス上陸を断念しています。でもまあ、この戦争はナポレオンが直接指揮をしていたわけではなく、イギリスのネルソン総督が、激ヤバの捨て身の強さだったという理由も大きいです。
1808年からはスペインの反乱が激しくなって、だんだん戦争にも苦戦していきました。
そして、決定打となったのが、1812年のロシア遠征失敗でした。
◆1812年ロシア遠征★ロシアの焦土作戦で完敗!」
1810年に、ロシアか食糧などの輸入のため、大陸封鎖令を破ってイギリスと貿易を再開しました。
ナポレオンの封鎖令継続の求めに、ロシアは応じず、1812年、ナポレオンは対ロシア開戦を決意したのです。
このロシア遠征は、なんと60万の大軍で結成されていました。本気見せてますね。
こんな大軍で攻められたらたまりませんね。ロシアではこの戦いを祖国を守るための戦争「祖国戦争」と呼びます。
ロシア軍司令官は、いぶし銀のような魅力輝く隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフでした。
こんな大軍相手にしたって絶対負けるとふんだ彼は、ひたすらロシアの荒野を逃げ回り、フランス軍の進路の町の物資や食糧をすべて焼き払う焦土作戦に出たのです。
これでモスクワは3日3晩燃え続け、廃墟と化しました。
そうして、季節は「冬」に向かいます。想像を絶するロシアの冬ですよ。
大人数のフランス軍は食糧調達ができず、まずは馬からバタバタと倒れ餓死しました。
ナポレオンは敗北を悟ります。そして、大軍を撤退させましたが、多くの兵が馬が死んだため歩兵となっており、また、飢えと寒さと疲労で次々に倒れていきました。
フランス軍が撤退を開始したと知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵を出陣させてフランス軍を追撃させました。
コサックの襲撃と寒さが課さなり、ロシア国境まで生還したフランス兵は、わずか5000人だったのです。
60万人が5000人ですよ!( ̄▽ ̄)
フランス軍にとっては地獄の撤退です。
そして、敗報の知らせが届いたパリでは、クーデター事件が発生しました。(これは失敗に終わる)
◆周辺国に一致団結で攻め込まれエルバ島に配流
いきなり敗北したら「クーデタ未遂事件」が起こるって、ナポレオンはカリスマじゃなかったの?って思いますよね。
この頃、ナポレオンは自分の身内を征服した国の王にすえたり、自分は低級貴族だからオーストリアの皇女と結婚して箔をつけたりと、独裁色が強くなって反対派が増えていたのです。
また、周辺諸国はフランス革命時から「フランスやべーよ!」という感じで、何度も「対仏大同盟」を結んで包囲していました。
ナポレオンがロシアにフルボッコされたという一報を受けて、このときも今だとばかりに「第4次対仏大同盟」(第6次と数える説もあり)が結成されたのでした。
これには、イギリス、ロシア、スペイン、ポルトガル、プロイセン、オーストリア、スウェーデンとドイツのいくつかの領邦が参加しました。いっぱい参加してますね。
そうして、フランスは、ライプツィヒの戦いなどで敗北し、1814年にはパリが陥落してしまいました。
その後、フランス軍に裏切り者が出たこともあり、ナポレオンは全面降伏するしかなくなります。そして、「フォンテーヌブロー条約」の締結で、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放されたのでした。
◆「百日天下」とセントヘレナ島での最期
ナポレオン失脚後、フランスではウイーン会議が開かれ、ルイ18世が復帰して王政復古が始まりました。
ルイ18世は、ルイ16世の弟・プロヴァンス伯です。彼はフランス革命時にいち早く外国に逃げて、復活するチャンスをうかがっていたようですね。
でも、当然ですがこのルイ18世、フランスの民衆の人気は最低でした。それを知ったナポレオンは、エルバ島を脱出して再びパリに帰還したのです!
でも、結局、ワーテルローの戦いで敗れ、今度はセントヘレナ島に囚人として流されたのでした。(百日天下)
◆おわりに
ナポレオンは、確かにすごいカリスマ性のある戦術の天才だったかもしれません。
それで、混乱していたフランスの英雄にあがめられたのでしょう。
でも、戦術の天才ではないことが露見したロシア遠征以降、フランスを危険視している周りの国々から標的にされていまいます。
周りの国から見たら、当時のフランスは危険すぎる危ない国だったのです。
フランス革命以降、ナポレオン失脚後も政権がコロコロ変わりました。
王政復古
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七月王政
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第二共和政
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第二帝政
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第三共和政(←第二次世界大戦はここ)
ナポレオンは、こんな時代のフランスに生まれたからこそ、「英雄」になれたのでしょう。
あと、ロシアの焦土作戦はヤバイという大きな教訓を残しましたね。
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