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こんにちは!
フランスやドイツでは、歴史上「エリザベート」という女性がたくさん登場します。
オーストリア皇妃エリーザベトも宝塚歌劇団の演目では「エリザベート」ですね。
それに、あの若い女性を血祭りにあげまくった「血の伯爵夫人」もエリザベート・バートリーです。
今回ご紹介するのは、ルイ16世の妹で、マリーアントワネットの義妹にあたる「エリザベート」です。
歴史ではほとんど登場しませんが、彼女はとても信心深く優しく最後の最後までマリーアントワネットの心の支えになった人なのです。
とっても素敵な女性なのです。
目次
◆心優しいフランス王女・エリザベート
エリザベートは、1764年にフランス王太子ルイ・フェルナンデンと王太子妃マリー・ジョゼフ・ド・サクスの末娘として誕生しました。
フルネームは、エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスです。
エリザベートは、派手なイメージの強いフランスの宮廷の中で異質な存在でした。彼女はとても心優しく堅実で、信仰心がとてもあつく、まるで修道女のようなメンタルをしていたのです。
その上、勉強熱心で頭がよく、乗馬や狩りなどのスポーツも大好きでした。ただ、優しいだけでなくしっかりした強さを持っていた女性なのです。
彼女のこの人柄は、幼い頃に両親が亡くなってからエリザベートを養育したマッカウ婦人の教育の賜物だといわれます。
マリーアントワネットがフランスに嫁いできたとき、マリーアントワネットは14歳で、エリザベートは6歳でした。2人は姉妹のように打ち解けました。
姉が嫁いで寂しかったエリザベートにとって、マリーアントワネットは素敵なお姉さまだったのです。彼女は兄夫妻が大好きで、よく食事も一緒にとっていました。
◆結婚はしなかったの?
エリザベートの優しさや堅実さは本物だったので、彼女はたいへん人気がありました。ヴェルサイユ宮殿では、ひそかに「天上の王女」と呼ばれていたほどです。
ですから、当然年頃になると、たくさんの縁談が舞い込んできました。聖女のような外見と性格なのですから、あちらこちらからの争奪戦になりそうな感じだったそうです。
でも、王女の嫁ぎ先は、他国の王家であることがほとんどです。マリーアントワネットの実家のように、姉妹がたくさんいたら一部国内に嫁ぐこともできたかもしれませんが、フランス王家は王女が2人しかいませんでした。(姉はすでに他国に嫁いでいます。)
つまり、結婚すると、まず一生フランスには戻れないということになるのです。エリザベートは、自分がフランス人でなくなることに耐えられませんでした。
それで、彼女は他国の王太子の元に嫁ぐより、兄夫婦のそばに、生まれ育ったフランスにいようと思い、生涯独身を貫くことに決めたのでした。
だから、フランス革命のときも、兄夫婦とずっと一緒にいたのです。
◆フランス革命に翻弄されて
エリザベートは、マリーアントワネットとともにフランス革命が起こったとき、もっとも保守的な考え方をしていました。
ルイ16世の他の2人の兄・プロヴァンス伯とアルトワ伯は、外国に亡命します。彼女も国外に逃亡するチャンスはありました。でも、彼女はそれを拒否して、国王家族とともに残ると決断したのです。
ベルサイユからパリのチュイルリー宮殿に移送されるときも、ヴァレンヌ逃亡のときも、いつも国王家族と共にいました。
そして、最後、タンブル塔に幽閉されたときも一緒でした。
ついに、ルイ16世が処刑されマリーアントワネットが処刑されます。とうとう次は彼女の番でした。
1794年5月、エリザベートはコンシェルジュリーに移され裁判にかけられました。マリーアントワネット同様、死刑が決定している上での裁判です。
宮廷の政治に関わりがなく、浪費もしなかった彼女を有罪にする理由は見つかりませんでした。それでも、裁判所は、エリザベートを「有罪」にする必要があったのです。
そして、エリザベートの罪は、国王の脱走を助けたことと、王族や貴族の亡命に資金援助したこととされたのです。
裁判官が根拠のない尋問や辱めるような言葉を発しても、彼女は毅然とした態度で最後まで理路整然と答えました。
裁判の聴衆はエリザベートに同情し、助命を願う声が上がりました。マリーアントワネットと違い、彼女は民衆の憎悪の対象でもなかったのです。
結局、彼女の本当の罪は、「国王の妹」だったことなのです。裁判の翌日、エリザベートは死刑判決を受けました。
◆エリザベートの人柄が分かる2つのエピソード
エリザベートは、正しく心優しい人だっただけでなく、たいへん勇気のある芯のしっかりした強い女性でした。それこそ、一国の王女にふさわしい人格者だったのです。
そんな彼女の人柄がよく分かる2つのエピソードをお伝えします。
1.マリーアントワネットの最期の心の支えだった
最後まで国王家族の一員だったエリザベート。
兄が処刑された後もマリー・アントワネットとその子供たちのことを想い見捨てずそばにいた慈愛に満ちた王女でした。
マリー・アントワネットが最後にしたためた手紙の宛名は、2人の子供でも恋人フェルセンで実家のハプルブルグ家でもなく、エリザベートだったのです。
中学生ぐらいの年頃になっていた娘でも恋人でもなくエリザベートだったというところからも、彼女がどれほど大きな心の支えになっていたか分かります。
そして、彼女が生き残れたなら子供たちを託したかったのでしょう。それほどマリーアントワネットの信頼を得ていたということです。
マリーアントワネットが最期にしたためた手紙は、残念ながらエリザベートの元に届くことはありませんでした。
この遺書ともいえる手紙は、発見した検事からロベスピエールの手に渡りました。
そして、ロベスピエールの処刑後は、保管されていたものが見つかり、紆余曲折を経て、20年以上も後ににマリーアントワネットの娘・マリーテレーズのもとへ届いたのです。
2.死刑間際に妊婦を救った
裁判が終わってコンシェルジェリーの個室に戻されようとしたとき、エリザベートは同じように革命裁判にかけられた女性たちのいる雑居房に行くことを希望しました。
そして、同じように判決を受けた女性たちのもと行き、彼女たちを励まして回ったそうです。死刑が執行されず生き残った人の証言によると、彼女は一切動揺することはなかったそうです。
そして、その中に妊婦がいるのを知ったエリザベートは、その人に妊娠していることを申告するように言いました。
妊婦は知らなかったのですが、「妊娠していると出産までの間刑が執行されることはない」という決まりがあったのです。
彼女は慈愛に満ちあふれ、落ち着いて周囲の人に気を配っていたのです。
エリザベートはすぐに死刑が執行されましたが、その妊婦は、出産する前にテルミドール9日のクーデターが起こったため、刑は執行されず釈放されたのです。
彼女とその生まれてきた子供は、エリザベートに命を救われたのでした。
当時のエリザベートの振る舞いや革命裁判の様子は、生き残った彼女たちが証言しています。
マリーアントワネット・ルイ16世・子供たち・ランバル公妃など