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こんにちは。
 
 
歴史上の人物には、絶世の美女と呼ばれる人はときたま出てきます。
 
 
でも、「絶世の美少年」ともなるとめったに登場しません。
 
 
今回のテーマ、天草四郎は紹介文によく「絶世の美少年」とついてるんですね。
 
 
なぜだと思います?
 
 
私は大きな理由は、謎のベールに包まれていて少年のうちに死んだからだと思います。彼は「じじい」になってないんですよ。
 
 
彼は「宗教的なカリスマ」なので、伝説上の人物に近いのです。
その人間像はキリスト教の聖人のように作られたものでした。
 
 
そんな伝説の美少年が大きな乱の指導者になったのは、3代将軍・徳川家光の時代でした。

 
 

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16歳の美少年「天草四郎」伝説

 

【天草四郎像】

 
弾圧されるキリシタンを救うべく、16歳の美少年・天草四郎が、宣教師の予言通り現れました。
 
 
天草四郎の伝説は、たくさん後世に伝えられていますよ。
たとえば
 
 
人とは思えないほど美しかった・・・
盲目の少女の目を触れただけで治した・・・
弓矢も鉄砲の弾も彼をよけた・・・
水面上を歩けた・・・
実は豊臣秀頼の息子だった・・・・
 
 
こういうすごい伝説が残っている人です。でも、これは特に珍しくありません。
 
 
聖人を神格化させるためのこの手の創作話はキリスト教の世界では、ごろごろ転がっています。洋風かぶれのキリシタンなら簡単に思いつきそうですよ。
 
 
秀頼の子というのも、源義経がフビライハンだったという伝説みたいなものでしょう。
 
 
江戸幕府が「島原の乱」を執拗なまでにぶっ潰していることから、九州に落ちのびた豊臣家の抵抗だったとささやかれるのです。(旗印が豊臣家と同じ「ひょうたん」だったというも根拠にされる)
 
 
では、実際の天草四郎は、どういう人だったのでしょう?

 
 

天草四郎の生い立ち

 

【天草四郎像】

 
天草四郎は1621年、熊本県天草市で生まれました。
 
 
彼は豊臣秀吉の重臣・キリシタン大名だった小西行長の家臣・益田好次(ますだ よしつぐ)の四男でした。「島原の乱」関係の史料に残る「益田甚兵衛」というのは、益田好次の通称です。
 
 
天草四郎は、元服後は益田時貞という名です。
昔の人は名前の表記がいろいろあって混乱しますね。
 
 
「姓・通称・諱(いみな)」の順でこうなりますよ。
 
 
父・益田甚兵衛好次
天草四郎・益田四郎時貞
 
 
天草四郎の「四郎」は通称(幼名)、「天草」は出身地に由来します。昔の人は「姓」の代わりに出身地を通り名にすることがありました。
 
 
また「諱(いみな)」を安易に呼ぶことはなかったので、天草四郎という名で後に伝わったのです。
 
 
益田好次は江戸時代には農民として生活していましたが、もともとは武士で経済的には豊かでした。だから、四郎も幼い頃から勉強することができ、高い教養を身につけることができたのです。
 
 
でも、四郎の子供の頃の生活は、ほとんど史料には残っていません。
 
 
天草四郎が生まれたころ、天草・島原地方の農民は、飢饉や重税に苦しめられキリシタンは弾圧されていました。
 
 
そんなとき、宣教師のママコフがある予言を残したのです。それは、「25年後に天変地異が起こる。そのとき、16歳の神の子が現れキリスト教に準ずる者は救われる」というものでした。
 
 
長崎留学から帰って来ていろんな「奇跡」を起こした美しい四郎を、農民たちはこの予言の「神の子」と固く信じたのでした。
 
 
そうして、「島原の乱」では、弱冠16歳の天草四郎を総大将とし、原城に籠城して3か月間も戦うことになったのです。
 
 
四郎は確かに賢く美しく、カリスマ性のある少年だったのでしょう。でも、彼はまだ10代半ばです。
 
 
実際に兵の指揮をとったのは、父親の益田甚兵衛と元武士だった浪人や庄屋たちでした。四郎は民衆を奮い立たせるために祭り上げられた「シンボル」だったのです。
 
 
最終的に、「島原の乱」は幕府軍の総攻撃によって全滅しました。原城は落城し、幕府軍にも約8千人の死傷者を出して終結したのです。
 
 
天草四郎も捕えられて斬首、その短い生涯を閉じました。

 
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「島原の乱」は農民一揆だった?

 

【島原城(復元)】

 
最近、「島原の乱」は「島原・天草一揆」と名称を改められました。歴史認識が変わったからです。
 
 
「島原の乱」鎮圧は、江戸幕府によるキリシタン弾圧というイメージが強いですが、実は、その内容はほとんどが年貢の取り立てに苦しむ農民の一揆の撲滅でした。
 
 
決起軍が籠城したのは島原の「原城」で間違いありませんが、武装蜂起したのは、肥前国島原肥後国天草の2つの地域だったのです。
 
 
この武力蜂起は、重税に苦しむ農民たちが同時多発的に起こしたものでした。後に、目的が同じなので手を組んで領主に立ち向かうようになったのです。
 
 
だから、本来は「島原」だけではなく「天草」も入れなければおかしいのです。
 
 
また、蜂起した人々の中のキリシタンの割合はごく一部だったという事実も、すでに確認されています。
 
 
要するに、「島原の乱」というのは、キリシタンが主ではなく、過度の年貢の取り立てなど領主の圧政に苦しんだ農民の一揆だったのです。
 
 
ただ、当時の領主・松倉家寺沢家がキリシタンを嫌って取り締まりをしたため、キリシタンたちが反発していたのも事実でした。
 
 
天草四郎時貞は、その中の1人だったのです。
 
 
つまり、農民一揆の集団とキリシタンが、どちらも利があると考えて手を結んだということです。
 
 
こうして一揆の武装集団はどんどん人数が増え、強大化していったのでした。

 
 

キリスト教徒の「乱」と強調されたわけ

 

 
この戦いが「農民一揆」ではなくキリスト教徒による「乱」とされた理由は、幕府にとってそのほうが都合がよかったからでしょう。
 
 
農民一揆ともなれば、島原地方の領主の力量を問われます。また、ちょうど日本がキリスト教禁止に向かっていた時期だったので、キリシタンは危険なテロリスト集団だと民衆に印象付ける目的もあったのでしょう。
 
 
実際、キリシタンがこの一揆に混ざっていたのは確かなので、ウソではありませんからね。
 
 
そして、この「島原・天草一揆」には、多くの浪人も参加していました。2代将軍のころから大名家の取り潰しが続き、主君を失って浪人になった武士たちが、たくさんいたからです。
 
 
浪人たちは、江戸幕府の作った社会に対する大きな不満を、この「一揆」に参加してぶつけたのでした。

 
 

「島原の乱」まとめ

 

 
「島原の乱」は多面的な性格を持つ歴史的事件だったのです。
 
 
1.重税に苦しむ農民の一揆
2.弾圧されたキリシタンの抵抗
3.江戸幕府に敵意を持つ浪人たちの反抗

 
 
これらが絡み合って大きな勢力となり、江戸幕府が総力を挙げて押さえるべき対象となったのでした。
 
 
そして、天草四郎は確かに利発で美しかったでしょう。でも、父親や周りの大人に「カリスマ主導者」と祭り上げられ翻弄された16歳の少年だったのです。
 
 
この戦いで皆殺しにされた犠牲者の遺体は、凄惨を極めました。
 
 
後の研究で、死んだ後に、さらに上半身と下半身に分断された遺体や、さらに大きな石で体を潰された遺体が多数発見されたのです。
 
 
この一揆の後、島原藩4万石はその半分以上の土地が無人になったといわれます。
 
 
その後の復興は、徳島県などからの移民によってなされたのでした。
 
 
力で押さえつける政治を続けると、こんな風になるよというよい例です。江戸幕府は、この事件で多くのことを学べたでしょう。
 
 
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   ↓



 
 

天草四郎の簡単年表

 

 
ほとんど史料が残っていない人なので、本当に「簡単」です。
 
・1614年
宣教師ママコフが予言。
→25年後に16歳の神の子が出現?
 
・1621年(1歳)
天草四郎が天草諸島で生まれる。
 
・1630年~1636年(10歳~16歳)
長崎に留学するなど学問に励む。
 
・1637年(17歳)
「島原天草一揆」勃発。
主導者として一揆を指揮。
 
・1638年4月12日
原城内にて斬首される。

 
 
 

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